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阿弥神社

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  祭  神:武甕槌命
  説  明:境内看板によりますと、
      「竹来は常陸国風土記の普都大神降臨の地とされ、当社は中世では庄内
       第一の惣廟として二の宮明神とよばれた。近世に阿弥神社と改める。
       社伝によると祭神は、武甕槌命である。
       本殿は元禄四年(西暦1691年)の棟札があり、町内最古の建築で
       ある。神域を囲む樹叢は町指定文化財である。また境内に吉田麦翠の
       句碑『湖の風も通うて夏木立』がある。
       なお境内の西方に縄文中期の根田貝塚、南方に付近から出土した中世
       石塔群がある。」
       と説明されています。
  住  所:茨城県稲敷郡阿見町竹来1652
  電話番号:0298−87−1656
  ひとこと:同じく、阿見地区にある阿弥神社の祭神は、豊城入彦命。
       この神社の祭神についても、本当は普都大神だ。いやいや豊城入彦命
       である。とんでもない高来神に決まってるじゃないか!などなど。
       諸説紛々であるようです。

       高来神とは、竹来地区の地主神でしょうか。それとも、高木神?

       また、普都大神というのは、多分、経津主命と関連のある神様(もし
       くは同一神)でしょうね。

       経津主命と武甕槌命はペアの神様です。
       経津主命を祀った香取神宮と、武甕槌命を祀った鹿島神宮は、ペアで
       語られますし、この二柱の神は出雲国譲りに出向いた神様だからです。

       その経津主命降臨の地に武甕槌命が祀られているとしたら、なぜなの
       でしょうか。

       いや、そもそも一体この二柱の神様はどういう神様だったのでしょう
       か?

       なんてことは、鹿島神宮・香取神宮の紹介でやろうと思いますので、
       今回は、豊城入彦命について。

       この神様は、関西ではあまり語られることのない神様でしょうから、
       調べてみましょう。

       豊城入彦命は、崇神天皇と紀伊国の荒河戸畔の女・遠津年魚眼眼妙媛
      (とおつあゆのめまくわしひめ)の長男です。

       日本書紀によりますと、崇神天皇は、この皇子と皇后との間に生まれ
       た活目尊のどちらに皇位を譲るかを悩んでいます。

       以下抜粋

      「崇神天皇四十八年春一月十日、天皇は豊城命・活目尊に勅して、『お
       前達二人の子は、どちらも同じように可愛い。いずれを後嗣にするの
       がよいかわからない。それぞれ夢を見なさい。夢で占うことにしよう』
       と。
       二人の皇子は命を承って、浄沐してお祈りをして寝た。
       それぞれ夢をみた。
       兄・豊城命は
      『御諸山に登って東に向って、八度槍を突き出し、八度刀を空に振りま
       した』と、父王に告げました。
       弟・活目尊は
      『御諸山の頂きに登って、縄を四方に引き渡して、栗を食む雀を追い払
       いました』と。」

       さて、問題です。あなたなら、兄・弟どちらが、天皇に相応しいと、
       感じますか?

       兄?そうですね。なんだか勇ましいですもんね。
       でも、そこは生涯で、何度も夢の託宣を受けた崇神天皇です。
       考えが穿っているというか、正しいのか。

      「兄はもっぱら東に向って武器を用いたので、東国を治めるのによいだ
       ろう。弟は四方に心を配って、稔りを考えているので、わが位を継ぐ
       のによいだろう」

       と、弟の活目尊に皇位を継がせます。
       兄の豊城命は、東を治め、上毛野君・下毛野君の先祖になられました。

       そんなわけで、関東には豊城命を祀る神社がたくさんあるようです。
       実は、筑波山神社の門神は、倭建命と、豊城入日子命でしたし、日光
       のニ荒山神社の祭神は、豊城入彦命です。

       さて、この逸話で興味深いのは、皇后の長子と、皇后でない妃の長子
      (ただし、皇后の長子より先に生まれた)のどちらに皇位を継がせるか、
       天皇が悩んでいるところではないでしょうか。

       これはかなり近代的な考え方、というか、現代の私達にも理解できる
       悩みではないでしょうか?

      「自分にとっての長子を取るか、皇后にとっての長子を取るか」
       ということになります。
       奈良時代・平安時代は、どれだけ早く生まれても、母親の身分が低け
       れば立太子できる可能性はほとんどなかったようですが、崇神天皇の
       時代は、そうでもなかったのですね。
       或いは、皇后とそれ以外の妃、という風に決められてはいるけれど、
       実際の扱いはほとんど変わらなかったのかも知れません。

       そこで、夢占いという、手段で後継ぎを決めるんですね。

       夢占いなんてのは、はっきりした法則性がないので、判じ者の意向ひ
       とつで、好きなように判断をくだせます。
       崇神天皇の意中の人は、弟だったんだけれど、それをはっきり言えな
       い事情があった、のかもしれませんね。

       もしかしたら、こう反論するかも知れません。
      「崇神天皇は、何度も夢占いによって、疫病の流行を阻止したり、豊作
       を祈願したりしている。この時も、夢占いに頼るのは不思議なことじ
       ゃないじゃないか」

       しかしですね。
       崇神天皇が疫病流行などの際に夢占いをたてた時には、神様が、夢に
       現れて、しっかり託宣してるんですね。「我を祭れ」と。

       今回の兄弟の夢はいかにも抽象的です。
       もし、この夢が反対だったら、つまり、兄が四方に縄をはる夢を、弟
       が、八度槍をつきさし刀を振る夢を見ていたら。
       天皇はこう言ったかも知れません。

      「弟は、勇ましい夢を見て、国を護る力が十分にあるから、皇位を継が
       せよう。兄は、思慮深く自分の地を固めることを考えたのだから、そ
       れを補佐する地位がよいだろう」

       ペテンですね〜。
       しかも、しかもですね。この時代の東国といえば、まだ荒れ荒れです。

       なんていっても崇神天皇の次の次の代の天皇にあたる景行天皇は、息
       子・倭建命を「やっかい払いするために」東国に行かせているんです
       からね。

       景行天皇の時代荒れ荒れなのなら、その二代前の天皇の時代なら、荒
       れ荒れ荒れでしょう。
       そんなところに、「天皇の位を譲りたいくらい可愛い」息子に行かせ
       ますかねぇ???

       遠津年魚眼眼妙媛は、豊城入彦命以外には、豊城入媛しか産んでいま
       せん。つまり、豊城入彦を東国に追っ払えば、遠津年魚眼眼妙媛の力
       は、グン!となくなる・・・んですよね。

       遠津年魚眼眼妙媛がどんな媛だったのか、また彼女の父親・紀伊国の
       荒河戸畔とはどんな人物だったのか。

       興味深いですねぇ。

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