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廣田神社

ひろた




  祭  神:天照大御神
  説  明:栞によると、
      「阪神タイガースの結団以来毎年恒例の必勝繁栄祈願で有名な廣田
       神社は、我国最古の国史書『日本書紀』に、神功皇后摂政元(西
       暦201)年、天照大御神荒御魂の御神誨により、三韓出兵御帰
       還の途次の神功皇后・胎中天皇(第十五代応神天皇=後の八幡大
       神)により武庫の地・廣田の国に創建されたことが記されている
       古大社です。これは西宮の地に関する記事の初見でもあり、西宮
       の地の黎明は正に、廣田神社とともにあったのです。
       その後も、俗に『六国史』と呼ばれる『日本書紀』以下の国史書
       の随所に、廣田神社に関する記事が散見しており、上代から中古
       にかけ朝廷に限らず国家的な規模で、廣田大御神が、国家鎮護・
       天地自然・立身出世を司る神様として、如何に多くの感心を集め、
       厚く待遇されていたのかが理解できます。白河天皇(十一世紀末)
       の御宇には、全国神社に冠たる二十二社の一社にも選ばれ、明治
       四年の社格制度の復興に際しては、県内で唯一最高位である官幣
       大社に列格、明治七年には境内地を割譲し末社・戎社(後の西宮
       神社)を県社として独立させている。西宮のみならず兵庫県を代
       表する名大社が、廣田神社であります。
      『西宮』の語は、この由緒深き廣田神社の別称として歴史に登場致
       します。律令国家時代の二官八省制で、国の政治を担う太政官と
       並び、国の神事を司った神祇官の日誌にも、廣田神社への度々に
       亙る参拝を『西宮』参拝・『西宮』下向と記され、村上源氏・神
       祇伯白川家一族の廣田神社に於ける歌合の会は『西宮歌合』と称
       され、中世の辞書である『伊呂波字類抄』や『二十二社註式』
      『簾中抄』等にも『廣田社、世俗西宮と号す』『廣田社、西宮也』
       とありますように、『西宮』は廣田神社の別称として、中古から
       中世広く一般に認識されていたのです。
       その後、廣田社を『西宮』と証したことから十四世紀頃には、現
       在の西宮市域を遥かに越える、広い地域を指し示した『御心廣田
       の国』(日本書紀)に代わって、『西宮』の語が廣田神郷全体の
       地域名として使われるようになります。近世に至ると『西宮』の
       地名は、市制施行以前の旧西宮町中心部のみに限定されるように
       なりますが、現在の西宮地域が、図らずも、元来『西宮』の地名
       が意味した、廣田神郷の地域を回復したことは、なにかしら御神
       縁を感じずにはいられないところです。
       廣田神社の御祭神である天照大御神は、八百万の神々の中で最高
       至貴とされる大御神であり、高天原の稲穂を授けられ、我々の生
       活の基たる衣食住を整えられた国民生活の祖神です。皇室の御遠
       祖でもありますから、日本国民すべての大祖神様であり、太陽に
       比定されるその御神徳は、別け隔てなくあまねく人々を照らしま
       す。そのような大神様ですので、その御神徳は多岐に亙り、天候
      (風雨)や天変地異(地震や台風)といった自然現象を始めとして、
       多くの御神徳が記録に記されております。
       神功皇后様に進むべき道を示され、大御神自ら皇后様の軍船の先
       峰となって皇軍を導かれたことから、先導・お導きの神として、
       困難打破・開拓前進・開運隆盛・新規事業等に御神徳有りと崇敬
       されます。
       応神天皇様を神功皇后様に授産せしめ、神功皇后と応神天皇の母
       子を守護し育まれたこと、伊奘諾・伊奘冉二尊の第一子として生
       まれながら、不遇の御子として流棄され、御子神の数にさえ入れ
       られなかった蛭子命を、大黒様と並ぶ福神として、多くの庶民の
       崇敬を集める戎神としたことから、子授け(貴子授産)や安産、
       傷病平癒・障害克服をも含めた子供達の健全育成の大神として崇
       敬されます。
       廣田大御神の御守護を受けた、蛭子命は福神・戎大神となり、応
       神天皇様は八幡大神と祀られたことから、立身出世・登位昇進の
       大神と崇敬されます。
       神功皇后様・応神天皇様に連戦の勝利を授け、源頼朝の平氏討伐
       祈願、蒙古襲来の度にも御神威を発揮されたことから、国難の守
       り・国家鎮護の大神として、武運長久・勝運・合格の大神として
       も崇敬されます。
       また、神功皇后様の軍船の先を導き、順風満帆海路を守り、旧西
       国街道に参道を面して旅人の道中の安全を守られたことから、交
       通海上安全・渡航留学安全・旅行出張安全の大神として崇敬され
       ます。
       更に、中世には住吉大神と共に、和歌・俳句・文学の神として崇
       敬され、現在は詩歌を始め学問・勉強全般に御神徳のある、受験
       合格の神様とされました。
       列挙すればまだまだ多くの御神徳が、様々な古文書・古記録に記
       されておりますが、きりがございませんので、ここまでと致しま
       す」
       とあります。
  住  所:兵庫県西宮市柳本町7−34
  電話番号:0798−71−1811
  ひとこと:さて、六国史とは、どの書物を指すのでしょうか。
       日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・
       日本三代実録。
       この六書で、中央政権により編纂された書物ばかり。

       つまり、この六国史に何度も名前が出てくるということは、この
       廣田神社は、中央政権の、中央政権による、中央政権のための、
       神社だといえるでしょう。

       だから、表街道を前進してきたのかな?と思うのですが、どうで
       しょうね。

       さて、何度か書いてはいるのですが、もう一度、日本書紀にある
       廣田神社に関連あると思われる箇所を抜粋しましょう。

       神功皇后が、西北方に国があるのを見つけて、
      「吉日を占い、出発されるまで日があった。皇后はみずから斧鉞を
       とって、三軍に令していわれるのに、『士気を励ます鉦鼓の音が
       乱れ、軍の旗が乱れるときには、軍卒が整わず、財を貪り、物を
       欲しいと思ったり、私事に未練があると、きっと敵に捕らえられ
       るだろう。敵が少なくとも侮ってはならぬ。敵が多くてもくじけ
       てはならぬ。暴力で婦女を犯すのを許してはならぬ。自ら降参す
       る者を殺してはならぬ。戦いに勝てば必ず賞がある。逃げ走る者
       は処罰される』と仰せられた。神(天照大神?)の教えがあって
       いわれるのに、『和魂は王の身の命を守り、荒魂は先鋒として軍
       船を導くだろう』と。神の教えをいただいて皇后は礼拝された。
       依綱吾彦男垂見を、祭の神主とした。」

       凱旋した後、忍熊王の謀反にあって、船が進まなかったので
      「それで武庫の港に還って占われた。天照大神が教えていわれるの
       に、『我が荒魂を皇后の近くに置くのは良くない。廣田国に置く
       のがよい』と。山背根子の女、葉山媛に祭らせた。」

       つまり、三韓遠征で神功皇后を守護した神様=天照大神の荒魂を
       祀った神社であることと、初代神主が葉山媛という女性である、
       ということがわかりますね。

       しかし、「依綱吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)」が祀っ
       た神社はどこなのでしょう。
       いろんな説があるでしょうが、これだけでは明らかじゃないです
       ね。

       さて、神功皇后が軍を励まして言われた言葉は、現代でも十分、
       通用する言葉ですね。

       この言葉を読んで、思い出したことがあります。

      (また話がそれますよ・・・)
       クラーク博士をご存知ですよね?
       札幌に立像がある、「少年よ大志を抱け」のあの、クラーク博士
       です。

       この博士が拓いた、札幌農学校(今の北海道大学)の校則を作る
       時、彼は、
      「校則など、紳士たれ(be gentleman)一言で十分だ」
       と一喝したとか。

       この神功皇后の言葉も、要約すれば、
      「勇士であれ、紳士であれ」
       ということになりますか。

       なかなか美しく、難しいことではあります。

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