benkyou

蝉丸神社

semimaru




  祭  神:蝉丸法師
  説  明:「これやこの 行くも帰るも  別れては 知るも知らぬも 
       逢坂の関」
       百人一首に登場する蝉丸法師の歌です。
      「今昔物語」では雑用をつとめた無 位の役人(雑色)と紹介
       され、「平家物語」「源平盛衰記」では醍醐天皇の第 四皇
       子とされているということで、謎の多い人物ですね。
       この神社の側に、かつて、「逢坂の関」があったようで、
       蝉丸法師の庵が、この側にあったと伝えられます。 
  住  所:滋賀県大津市大谷町
  電話番号:
  ひとこと:さて、今をときめく、「陰陽師」の一巻、「玄象という琵琶」
       の中で、源博雅朝臣が、蝉丸法師を連れてくるというくだり
       がありますが、これは、今昔物語の巻第二十四の第二十三話
       を踏んでいるのでしょう。

      「今は昔、源博雅朝臣という人がいた。醍醐天皇の皇子、兵部卿
       の親王と呼ばれた克明(かつあきら)親王の子である。よろずの
       ことに優れた人であったが、なかでも管弦の道を極めていた。
       琵琶はいとも優美に弾き、笛の音は艷にして得も言われなかっ
       た。この人は村上天皇の御代の殿上人であった。」
      「その頃、逢坂の関にひとりの盲人が庵を作って住んでいた。名
       を蝉丸といった。宇多法皇の皇子、敦実親王の雑色であったが、
       親王は管弦の道に秀で、琵琶をよく弾いていた。それを常に聞
       くうち、蝉丸も琵琶の上手になったのである。」

       ・・・・・

      「博雅は『琵琶には流泉・啄木という曲があるが、世に絶えてし
       まった秘曲である。ただあの盲のみが知っている。如何にして
       も聴いてやろう』と、三年間、夜な夜な庵のほとりへ行っては、
       今か今かと立ち聞きしたが、一向に弾く様子が無い。」

      「三年目の八月十五日、月はおぼろに霞み、風が少し強く吹く夜、
       盲は琵琶をかき鳴らし、感興ありげな様子である。
       博雅が期待を篭めて耳をすませるうち、蝉丸はひとり憂さを晴
       らすように、
      『逢坂の関の嵐のはげしきに強ひてぞゐたる夜を過ごすとて』
       そう詠じると、琵琶をかき鳴らした。
       盲(めしい)が独り呟いて言うことに、
      『ああ、興のある夜だことよ。私以外に数奇者が世におらぬもの
       か。今宵芸道を心得た人が訪ねて来たら、物語しようものを』」

      「博雅はこれを聞き、『私はしかじかの者。管弦の道を好む余り、
       この三年間、庵のほとりに通っていたが、幸い今夜そなたに会
       うことができた』と」

      「盲はこれを聞いて喜んだ。博雅も喜色を浮かべ、庵の内へ入る
       と、うちとけて物語などしあった。
      『流泉・啄木の奏法を聞きたい』と博雅が言うと、
      『亡き親王はこのようにお弾きになったものでした』
       と盲は言って、件の奏法を博雅に伝えた。博雅は琵琶を携えて
       来なかったために、ただ口伝によってこれを習ったのである。」

      「この話を思うに、諸々の道はこのようにひたすら好むべきもので
       ある。」

      「蝉丸は賤しい者ではあるが、長年親王の弾く琵琶を聴き、このよ
       うに道を極めた上手になったのであるが、盲目となったので、逢
       坂にいたのである。この時以後、盲者が琵琶を弾くことが世に始
       まったと語り伝えているのである。」

       こんなお話です。

       能の「蝉丸」では、彼は、帝の子供なんだけど、盲目に生まれつ
       いた為、来世が良くなるようにと、逢坂山に捨てられた後、源博
       雅朝臣と、交流ができるというストーリーになっています。
       来世が良くなるために、山に捨てる?ん〜む。こちらは、かなり、
       作り話っぽいですね。

       蝉丸法師が、どのような身分の人なのかは分かりませんが、琵琶
       の名手であったということは、間違いなさそうです。

       坊主めくりの中で、「坊主の中の坊主」と呼ばれる蝉丸法師です
       が、本当は、「坊主」じゃなくて、「楽師」であるというのも、
       おもしろいですね。

home 神社のトップに戻ります back