benkyou

桑津天神社

kuwadsuten




  祭  神:少彦名命 菅原道真 須佐之男命 天児屋根命 布刀玉命 天宇受売命 
       猿田毘古神 奇稲田比売命 経津主命 健甕槌命 野見宿根 
  説  明:御由緒書を転載します。
      「大坂陣の時に資料を失い、由緒は詳らかではない。しかし口伝によると、髪長媛
       が病にかかられた時、少彦名神に祈願され全快された。その縁故により、後世同
       神を桑津の地に勧請された。
       古来毎年九月二日に、新米を以て『しんこ』を作り神前に供えるのは、媛の本復
       祝いに供えられたことによる。後に『桑津のしんこ』として名物となった。
       髪長媛がこの桑津の地に召された記事は、『日本書紀』の応神天皇の条に『十三
       年春三月、天皇専使を遣わして髪長媛を徴さしめたまふ。秋九月中に、髪長媛日
       向より至れり。便ち桑津邑に安置らしむ』と記されている。
       即ち、髪長媛は神として、神の資格を持った采女として、宮中の新甞祭に奉仕す
       るために、日向の国(現在の宮崎県都城市が髪長媛生誕の地と言われ、同地の早
       水神社には髪長媛をご祭神として奉祀されている)より召され、仁徳天皇妃とな
       られ、桑津にお住みになった。
       後に、髪長媛の住まい跡に金蓮寺が建立された。同寺については、古記録による
       と『文禄三年浅野弾正の検地以来その境内四百九十三坪は徐地となり、宝暦七年
       住職洞空の再建す』と記されている。ところが次第に廃頽し、無住のため明治六
       年、廃寺となった。神仏分離の際、八幡宮(応神天皇・髪長媛)を天神社境内に
       遷し末社となる。
       尚、当社は明治五年、村社に列し、同四十一年三月二十五日、生野村大字林寺新
       家の村社、林神社(牛頭天王社)の御祭神、須佐之男命・奇稲田比売命・野見宿
       禰の三柱を合祀し、同四十二年六月、神饌幣帛料供進社に指定される。」
  住  所:大阪府大阪市東住吉区桑津3−4−17
  電話番号:06−6719−3959
  ひとこと:この神社もまた、少彦名命を祀った「天神社」です。
       そして、この少彦名命を祀ったのは・・・というより、その原因となる病気にな
       ったのは、髪長媛・・・ということですね。

       髪長媛は、美女の誉れたかい女性です。
       なにしろ、応神天皇・仁徳天皇が親子で奪い合ったんですから。
       まぁ、奪い合ったといっても、応神天皇は、あっさり息子に譲ってしまうのです
       けどね(笑)

       日本書紀を引用しましょう。
      「十一年冬十月、剣池・軽池・鹿垣池・厩坂池を造った。
       この年、ある人が申し上げて、『日向国に髪長媛という乙女がいて、諸県の君牛
       諸井の女です。これは国中での美人です』といった。天皇は心中喜ばれて、これ
       を召そうと思われた。
       十三年春三月、天皇は専使を遣わして、髪長媛を召された。
       秋九月中旬、髪長媛は日向からやってきた。摂津国桑津邑に置かれた。皇子の大
       鷦鶺尊は髪長媛を御覧になり、その容貌の美しいのに感じて、引かれる心が強か
       った。天皇は大鷦鶺尊が、髪長媛を気に入っているのを見て、娶わせうようと思
       われた。後宮で宴会を催されたとき、始めて髪長媛をよんで、宴の席に侍らされ
       た。大鷦鶺尊をさし招き、髪長媛を指さして歌を詠んでいわれるのに、
       イザアギ、ヌヒルツミニ、ヒルツミニ、ワガユクミチニ、カグハシ、ハナタチバ
       ナ、シツエラハ、ヒトミナトリ、ホツエハ、トリヰカラシ、ミツクリノ、ナカツ
       エノ、フホコモリ、アガレルヲトメ、イザサカバエナ。
       と。
       大鷦鶺尊は御歌を賜って、髪長媛を賜ることを尻、大いに喜び返し歌をされて、
       ミヅタマル、ヨサミノイケニ、ヌナハクリ、ハヘケクシラニ、ヰクヒツク、カハ
       マエタエノ、ヒシガラノ、サシケクシラニ、アガココロシ、イヤウコニシテ。
       と。
       大鷦鶺尊は髪長媛とすでに同衾され、仲睦まじかった。髪長媛に向かって、歌を
       詠んで言われるのに、
       ミチノシリ、コハタオヲトメヲ、カミノゴト、キコエシカド、アヒマクラマク。
       と。
       また歌を詠まれて、
       ミチノシリ、コハタヲトメ、アラソハズ、ネシクヲシゾ、ウルハシミモフ。」

       ちょっと順番が錯誤してわかりづらいので、整理すると、

       まず、応神天皇は、髪長媛という美人がいることを聞いて、彼女を召されます。
       髪長媛を見た、大鷦鶺尊(仁徳天皇)は、一目惚れをし、早速彼女に言い寄りま
       す。
       髪長媛はそれに逆らわず、めでたく若い二人は結ばれ、応神天皇は、それに気づ
       き、二人の関係を認めることにします。
       そして、ある宴の席で、そのことを、二人に知らせます。
       大鷦鶺尊は大喜び。

       ということになりますね。

       父の新しい側室を息子が奪うという話しは、古事記に出てくる、景行天皇と大碓
       命のエピソードが有名かもしれません。
       ただし、この二人の場合、大碓命は父の側室を奪った罪におびえ、父の前に顔を
       出さなくなり、結果的に、弟・小碓(ヤマトタケル)命に殺されてしまうのです。

       その点、この応神・仁徳天皇親子の場合は、軋轢もなく、スムーズに事が運んで
       いますね。いやぁ、めでたい。

       ただ・・・。
       応神天皇の気持ちを考えると、何か寂しいものもあります。

       この時、応神天皇、齢82。
       仁徳天皇は、崩御の年齢が書かれていないので、逆算できないのですが、崩御は、
       即位から87年目。
       応神天皇の崩御が110歳であるとなっていますから、だいたい同じ年くらいだ
       と考えてると、まだ生まれてもおられないことになります(^^ゞ
       生まれる8年前という計算・・・。
       つまり、仁徳天皇の享年が130歳と考えても、この時まだ12歳。
       ・・・かなりお若いのです。

       髪長媛は美貌の誉れ高く、召されたわけですから、かなりお若かったでしょう。
       自分が恋した女を、まだ若く美しい我が子がやはり恋していることに気づいたら。
       あまつさえ、女も我が子を恋していることを知ってしまったら。
       年老いた権力者はどうするでしょう。

       息子とはいえ、国王の自分が処刑にすることは簡単なのです。
       国外追放にすることも考えられるでしょう。
       ・・・なにしろ、応神天皇の皇子の数は多い。
       しかも、応神天皇が跡継ぎにしたい、と考えていたのは、大鷦鶺尊ではなく、兎
       道稚郎子だったのですから。

       アーサー王は、妃グィネビアと若いランスロットの恋を許せず、ランスロットを
       相手に戦い、身を滅ぼしました。

       しかし、応神天皇は、そうはしませんでした。
       若い二人の心のままに、祝福されたのです。

       息子が父との恋の鞘当に負けた話しもあります。
       ツルゲーネフの「初恋」。

       息子だけではなく、伯爵・医者・詩人・・・数多の若い男を退けて、美女・ジナ
       イーダをモノにしたのは、主人公の父でした。
       恋に破れた医者はこんなセリフを吐いています。
      「ああ、おれは馬鹿だった。あの女性をコケットだと思っていたのだから。どうや
       ら、人によっては・・・自分を犠牲にするということが、気持ちのいいものと見
       える」

       解説するのも野暮ですが、ジナイーダにとって、伯爵と結婚するにしても、医者
       と結ばれるにしても、詩人と愛し合うにしても・・・。
       主人公の父・・・妻も子もいる中年の男・・・との底のない沼のような愛よりは、
       ずっと救いがあるはずなのです。

       しかし、彼女は、一番救いのない愛を選び、誰もそれに対して攻撃を加えること
       はできませんでした。

       結局、愛されている人間と、愛されていない人間では、この二人の力関係がどう
       であろうが、勝敗は既についているのですね。

       応神天皇はそれをわかっていたのかもしれません。
       大鷦鶺尊が、
      「ミチノシリ、コハタヲトメ、アラソハズ、ネシクヲシゾ、ウルハシミモフ。
       ・・・乙女が争わずに一緒に寝てくれてうれしく思う」
       と詠んでいるように、乙女の気持ちが大鷦鶺尊にあったからこそ、応神天皇は、
       若い二人を祝福したんでしょう。

       さて、もののついで(?)ですので、髪長媛について、もう少し日本書紀からひ
       いてみましょう。

      「ある説によると、日向の諸県君牛(もろがたのきみうし)は、朝廷に仕えて老齢
       となり、仕えをやめて、本国に帰った。そして女の髪長媛を奉った。播磨国まで
       きた。天皇は淡路島にきて狩をなさった。そして西の方を御覧になると、数十の
       大鹿が海に浮いてやってきて、播磨の加古の港に入った。天皇はそばの者に、
      『あれはどういう鹿だろう。大海に浮かんで沢山やってくるが』といわれた。お側
       の者も怪しんで、使いをやって見させた。見るとみな人である。ただ角のついた
       鹿の皮を、着物としていたのである。『何者か』というと答えて、『諸県君牛で
       す。年老いて宮仕えができなくなりましたが、朝廷を忘れることができず、それ
       で私の娘の髪長媛を奉ります』と。天皇は喜んで娘を宮仕えさせられた。それで
       時の人は、その岸についた処を名付けて、鹿子(かこ)水門といった。およそ水
       手を鹿子というのはこのとき始めて起こったという。」

       このことから、髪長媛が「海人」の血をひく女性なのじゃないか、と想像できま
       すよね。
       しかも、「牛」「鹿」との関連を考えると、狩猟の民でもあったのでは。

       その女性が病に倒れたとき、勧請したのが、少彦名命である・・・というのは、
       少彦名命と、海洋の民との関連を感じさせますね。

       少彦名命は薬の神としての信仰も篤いですから、病本復のために少彦名命を勧請
       するということに、不自然さはありませんけれどね。

       そして・・・これは関係ないのかもしれないのですが、応神天皇親子と同じく、
       親子で女性を取り合った、景行天皇の妃に、
      「日向髪長大田根」という女性の名が登場します。
      「日向」「髪長」というキーワードが全く一致しているのは、何か不思議ですが、
       もしかしたら、日向の国の女性は、皆髪が長かったのかもしれませんね? 
       もしくは、「美女の条件」は、「髪が長いこと、なにがなんでも長いこと」だっ
       たのかもしれません。      

home 神社のトップに戻ります back