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木代神社

kishiro





  祭  神:白髪明神 他十四柱
  説  明:案内によりますと、
      「勧請の年月詳らかならずと謂えども、三国地誌に謂う白髪明神祠
       にして社伝に拠れば当社は往古高山喰代蓮池三ケ村即ち木代郷の
       惣社たること明らかなり。
       明治四十年七月八日大字蓮池各神社を合祀して白髪神社と単称し、
       同四十一年四月八日大字高山及び喰代各神社を合祀して、村社木
       代神社と改称せり。
       三郷の神社併せて二十九社御祭神十五柱を斎き祀るなり。
       昭和二十年八月十五日大東亜戦争集結なるや、神道指令に依り社
       格を取り除かれる因みに、例祭は四月八日なり。」
       とあります。
  住  所:三重県上野市蓮池351
  電話番号:0595−36−2573
  ひとこと:まず、三国地誌について。
       これは、宝暦十三年(西暦1763年)に、伊賀司城職にあった
       藤堂元甫という人物が企画して編纂された書物です。
       当時の三国(伊賀・伊勢・志摩かな?)について書かれているよ
       うなのですが、いかんせん手許にないので、想像するしかありま
       せん。

       さて、「喰代」という地名です。
       なんと読みますか?
      「きしろ」になったんだから、「くいしろ」?
       いや、それが、「ほおじろ」と読むんですって。なんででしょう?

       それはさておき、この喰代には、百地丹波泰光と式部の悲恋の伝
       説があります。

       この百地丹波泰光とは、有名な伊賀忍者・百地三太夫と同一視さ
       れている人物なのですが、吉野へ北面の武士として勤めていた時、
       式部という女性と関係を持ってしまいます。
       そして、百地丹波泰光が任を解かれて、伊賀は喰代に帰る時、式
       部も追いかけてくるのです。

       ところが、二人は行き違い、式部が先に、百地丹波泰光の家に着
       いてしまうんです。

       留守番をしていた本妻は、さすが女の勘(?)、この女が、吉野
       での百地の妻であることを見抜き、夫が帰ってくる前に、と、式
       部を殺して、井戸に投げ捨ててしまうのです。

       さて、そこに帰ってきた百地丹波泰光。
       井戸に投げ込まれている愛人を見つけてしまうわけです。

       怒り狂った百地は、妻を殺し、彼女も井戸の底へと沈めてしまい
       ました。

       悪いのは、あんたやろ!!!

       は、おいといて。
       この井戸は、今は埋められて、今は「樒塚」と呼ばれています。
       んでもって、ここは参詣者が断たない霊験ある塚として有名なの
       です。

       え?どんな霊験だって?
       つまり、夫に愛人ができた場合、この塚に祈りにくると、夫は愛
       人と別れるんだそうです。

       つまり、世の人々は、式部よりも、百地の妻に感情移入してるの
       ですねぇ。

       普通、悲劇の人に傍観者は同情するもんでしょう。それが、まぁ、
       勿論、この妻も悲劇の人なわけですが、殺人者でもある側に同情
       するとは、いつの世も、女は男の浮気に泣いてきたということな
       んでしょうか???

       ということで、白髪明神です。
       ぱっとみたら、「白鬚明神」と身間違えるのですが、「鬚」じゃ
       なく、「髪」です。

       どんな神様なのか、と言うと・・・。
       白鬚明神と取り違えたのかもしれませんし、もしくは。

       白髪武広国押稚日本根子天皇という名前が日本書紀に見えます。
       漢風諡号は「清寧天皇」。

       生まれた時から白髪だったと言われるこの天皇の父親は、雄略天
       皇。母親は、葛城韓姫。
       この両親の関係は複雑です。

       雄略天皇の父親は安康天皇。
       その安康天皇を父の仇、と殺したのは眉輪王。
       その眉輪王を父の仇と、殺したのが雄略天皇です。

       つまり眉輪王の母親・中蒂姫を手にいれるために、安康天皇は、
       眉輪王の父であり、中蒂姫の夫である大草香皇子を殺しているの
       です。

       それを知った眉輪王は、幼いながらに、父の仇を討った上、追い
       詰めてきた稚武皇子(雄略天皇)に、
      「私は皇位を望んではおりません。父の仇を討ったまで」と、立派
       に言い開きするのですが、許されず、円大臣の家に匿われます。

       この円大臣の娘が、葛城韓姫。
       円大臣は、「娘を差し出すから」と、罪の贖いを求めるのですが、
       これは許されず、眉輪王もろとも焼き殺されてしまいます。

       ここらへん、「父の仇」が錯綜していますね。

       そして、この「白髪の命」こと、清寧天皇の両親は、父の仇と、
       人質にされた娘という関係になるわけで、複雑です。

       そんなわけで、生まれたときから白髪だったんでしょうか。

       日本書紀に、「他の皇子に比べて、特別に変わったところのある
       不思議な方であった」と、書かれているこの天皇は、自分には皇
       子がなく、皇位は、父親・雄略天皇が謀殺した市辺押磐皇子の子
       供・億計皇子に譲ります。

       確かに、この時代にあっては、「変わった人」ですね。

       苦労人が、情け深く成長するのと同じくらい、苦労人が冷酷にな
       ることもあるでしょう。

       人は自分の経験していないことで、物事を計ることは難しい。
       自分が虐待されて育った人は、自分が親になると子供を虐待する
       傾向にある、というのは、自分の経験では、親は子供を虐待する
       ものである、という意識がどこかにあるのでしょう。

       でも、この天皇はそうはなりませんでした。
       自分が苦労したから、心が深くなったのでしょうか。

       民衆の生活を巡察され、囚徒を親しく訪問し、善政を敷かれたよ
       うです。

       こういう人物を「ありがたい」っていうんでしょうね。

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