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諏訪大社 下社 春宮

suwaharumiya





  祭  神:建御名方神 八坂刀売神 八重事代主神
  説  明:栞を引用します。
      「信濃国一之宮諏訪大社は、昭和二十一年迄官幣大社諏訪神社と称して
       おりましたが、同二十三年に現在の社号に改称しております。
       諏訪大社は諏訪湖の南北に二社ずつ四ヶ所に分かれて鎮座する、独特
       の形を持ったお宮です。
       御祭神の建御名方神は大国主神(大国さま)の御子神で、妃神が八坂
       刀売神、八重事代主神(えびすさま)は御兄神に当たります。」
      「下社に於いて最も重要な場所で御神座とも相殿とも言われる場所にあ
       る御神木は、秋宮の一位の木に対して、春宮では杉の木です。平素山
       上におられると考えられた神々を、この御神木にお招きして、その神
       々にお供えする御神宝をお祀りしていたのが宝殿であり、後に神々に
       平素お鎮まりを願うために御本殿を作り、今日の一般のお祭りの形式
       へと変化したものと考えられます。」   
       とあります。
       また、社殿の説明に、こんな逸話が記載されています。
      「春宮、秋宮は同じ絵図面が与えられたと見え、大きさこそ違いますが、
       構造は同じで、二社の建築は彫刻において技が競われています。秋宮
       の立川和四郎に対して春宮は柴宮(伊藤)長左衛門が請負い、後から
       着工して一年早く安永九年に竣工させております。
       その間にさまざまな言い伝えがあります。
       春宮側の人足が秋宮へ仕事の邪魔にと夜間に乗じて柱を切りにいくと、
       和四郎はそれを見越して長目に刻んだので、次の日切られた柱は寸法
       通りすっぽり目的の場所にはまったと言います。
       又、春宮が先に仕上がったので和四郎が見に行って、正面欄間の竜を
       見て『死んだ竜が刻んである』と言ってけなすと、長左衛門が、『悟
       りを開くと動物でも腹を出して休むことを知らないのか』と笑った。
       少し遅れて秋宮の竣工の時に長左衛門が脇飾りの竹に鶴の彫刻を見て、
      『竹の下のは筍かと思ったが、葉の重なりが百合の芽だ』と笑ったと言
       います」
  住  所:長野県諏訪郡下諏訪町
  電話番号:
  ひとこと:く〜〜っ!!
       彫刻ちゃんと見てこなかったよ〜〜〜(T_T)

       立川和四郎という人物は、諏訪立川流を起こした人物で、大隈流と並
       んで、江戸時代の宮彫流派の代表とされてるんだそうです。

       そして、この春宮の彫刻をした、柴宮長左衛門は・・・と調べたら、
       なぁんだ、大隈流の棟梁なんですね。

       つまり、この時代の宮彫に於ける、竜虎が春宮・秋宮の彫刻を競った
       わけです。
       つまり、そんな彫刻をちゃんと見なかった私は、むっちゃ馬鹿・・・。

       見なかった彫刻については、なんもわかんないので、ご神木を見てみ
       ましょう。

       秋宮は一位の木、春宮は杉の木がご神木である、となっていますね。

      「イチイ」という樹木の名前は聞いたことがあるけれど、「一位」と書
       くなんて知りませんでした。

       しかし、「杉」も「一位科」の樹木なんですね。
      「アララギ」という別名もあり、神官が持つ「勺」をこの木で作ってい
       たことから、仁徳天皇が、この木に「正一位」の位を授けたのが、
      「一位」という名前の由来だといわれています。

       日本書紀にその話が出てくるか?と読んでみたら、一位の木について
       は載っていませんでしたが、「杉」に関する(?)逸話がでてきまし
       た。

       応神天皇のころから雄略天皇のころまで、文化が爛熟していたのか、
       お硬いはずの「史書・日本書紀」にも面白い逸話がたくさん出てきま
       す。読んでみると、おもしろいですよ。

       さて、杉(??)の逸話です。

       仁徳天皇十一年夏、四月十七日、天皇は、用水の整備を詔されました。

       堀江の堤はつつがなく出来上がったけれども、茨田の堤は、ある2箇
       所が、すぐ破れ、なかなか完成を見ずにいました。
       すると、ある晩、天皇は夢を見ました。
       神様が出てきて、
      「武蔵の人強頸(こわくび)と、河内の人茨田連杉子(まんだのむらじ
       ころものこ)を河伯に奉れば堤は完成するだろう」と告げたんだそう
       です。

       名指しするところが、な〜〜〜〜〜んか、怪しいですね。

       強頸は、嘆き悲しみながらも、河に入れられ、その堤は完成しました。
       しかし、杉子は、納得しませんでした。
       瓢箪を二つ水に浮かべ、
      「河の神が祟るから、と、私が生贄にされることになった。
       私を本当に得たいのなら、この瓢箪を沈めてみよ。
       それくらいできない神に、河を鎮めることはできまいから、もし、瓢
       箪が沈まなければ、私は無駄死にしたくなんかないね」
       と、啖呵を切ったわけです。
       うん。筋が通ってる。

       しかし、その時、突風が吹き、瓢箪を沈め・・・ようとしたけど、風
       くらいじゃぁ、瓢箪は沈みませんわな。
       結局、杉子は死にませんでした。

       その上、堤は完成したってんですから、それまでの苦労はなんだった
       んでしょう?

       誰か、強頸と杉子に恨みを持つものが、「河の神の祟り」を演出して、
       二人を生贄にするようにお膳立てしたんじゃないか?と勘ぐりたくな
       るような話ではあります。

       杉子の強気さも、そういう「裏事情」を察していたからなような気も
       してきます。

       とにかく、この堤は、時の人に、「杉子の断間(たえま)」と呼ばれ
       たそうで、生贄にならなかった杉子を、当時の人が、憎まなかったこ
       とが知れます。

       神を畏れる弱い人間達は、河や自然の大いなる力の前での自分達の無
       力さを知っていたでしょうから、もし、生贄が当然のことであれば、
      「杉子が生贄にならないことによって、河の神の怒りが増したらどうす
       るつもりだ。瓢箪が沈まなかったのがなんだっていうんだ」と、恐怖
       から、杉子を憎むんじゃないでしょうか?

       ということを考えれば、当時の人々も、この二人の生贄に、「不自然
       さ」を感じていたのかも知れません。

       そんなわけで、「一位」「杉」(?)共に、仁徳天皇に一目置かれた
       存在が、春宮・秋宮のご神体となっているわけですね。
       ん〜〜〜。さすが。
       え?こじつけ?
       はっはっは・・・まぁね〜〜〜。

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