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諏訪大社 上社 本宮

suwahongu

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北斗神社





  祭  神:建御名方神
  説  明:栞を引用します。
      「信濃国一之宮諏訪大社は、昭和二十一年迄官幣大社諏訪神社と称して
       おりましたが、同二十三年に現在の社号に改称しております。
       諏訪大社は諏訪湖の南北に二社ずつ四ヶ所に分かれて鎮座する、独特
       の形を持ったお宮です。
       御祭神の建御名方神は大国主神(大国さま)の御子神で、妃神が八坂
       刀比売神、八重事代主神(えびすさま)は御兄神に当たります。」
      「御鎮座及御神徳
       御鎮座の年代について詳しく知ることはできませんが、『古事記』そ
       の他の書物から推定して少なくとも千五六百年から二千年前と言われ
       ており、我国で最古の神社の一つにかぞえることが出来ます。北は北
       海道から南は吸収鹿児島県にいたる全国に勧請された御分社の数は壱
       万有余にも達し、その総本社であり、昔から諏訪大明神、諏訪南宮法
       性上下大明神、又はお諏訪さまと親しまれ、雨や風、水の守り神とし
       て龍神の信仰も古く、国土開発、農耕生産、開運招福、交通安全の守
       護神として篤く崇敬され、特に歴代の朝廷をはじめ武門武将からは勝
       負の神、軍さ神として崇められ日本第一大軍神、又は東関第一の軍さ
       神と称えられてきております。
       その二、三の例を見ますと、神功皇后三韓出兵の折、諏訪大神の神助
       ありと伝え、平安初期桓武天皇の勅命を受けた征夷大将軍坂上田村麻
       呂が、途路諏訪大明神の大前に、戦勝の祈願をなされ、やがて平定の
       後、神恩感謝のため諏訪郡の田畑山野各千町歩と毎年の作稲八万四千
       束の奉納があります。
       鎌倉時代には源頼朝が源氏再興の守護神として篤く崇敬して社領を寄
       進し、また大社の重要な祭典である御射山御狩神事(現在八月二十六、
       二十七、二十八の三日間御射山社祭)には年々諸国の武将を率いて参
       列し、霧ケ峰高原一帯に於いて武芸を競わせております。隣国甲斐
      (山梨県)の武将武田信玄は特にお諏訪さまを信仰し、武田家の護り神
       と崇め、社殿の造営や社領等を寄進し、廃絶していた祭祀をも再興さ
       せ、或いは各地への戦いにはその都度参詣して武運長久の祈願を込め、
       諏訪南宮法性大明神の旗印を先頭に出陣しておりますし、浄瑠璃や歌
       舞伎の本朝二十四季で有名な諏訪法性の兜を奉納しております。
       徳川幕府の信仰も厚く、初代家康は上社本宮に神門を寄進、三代家光
       以下歴代の将軍は上社に千石、下社に五百石、都合千五百石の社領を
       寄進し、崇敬の誠を捧げています。
       日本書紀持統天皇五年(691年)を初見として、以後種々の書物に
       諏訪大神の名を留めており、朝廷武門を始め一般の人々の信仰も広く、
       日本の屋根信州諏訪の地へとの参詣も日と共に繁く、諏訪大神の御神
       徳の篤きことが伺われます」
      「出早社
       鳥居をくぐりすぐ左側にあるお社で、上社の地主神、お諏訪様の門番
       の神様と伝えられますが、祭神は諏訪大神の御子神・出早雄命(いず
       はやお)です。古くからイボ神様として敬われ、小石を捧げてイボの
       全快を祈る風習があります」
      「摂末社遥拝所及び大国主命社
       額殿に続く細長い建物でこれも文政年間の造営です。上社に特に関係
       の深い摂社や、末社の神号殿で、上の十三所、中の十三所、下の十三
       所で合計三十九社の身名を掲げてあり昔は十三所遥拝所とも言いまし
       た。現在大社の摂末社は上社関係が四十二社、下社関係は二十七社あ
       り、明治以後独立した関係摂末社まであわせると、その数九十五社に
       及びます。上下四社の境内を始め郡下に点在しておりますが、その摂
       末社を朝夕こちらで遥拝します。
       遥拝所の隣の小さな御社は、大国主命社でお諏訪さまの御父神、大国
       さまをお祀りしております。」
      「なお上社は、お山(神体山)が御神体となっています。」
      「式年造営御柱大祭
       諏訪大社の諸祭儀の中でも特筆すべき大祭で、御柱祭またはおんばし
       らとも言い、寅年と申年の七年目ごとに行われるもので、その行事が
       特殊であり、規模が雄大豪壮であるところから奇祭の一つにあげられ
       ております。祭の起源は遠く古代にさかのぼりますが、804年桓武
       天皇の御代からは信濃国一国の総力をあげて奉仕がなされる様になり、
       武田信玄もこの祭には特に力をいれ、祭典が盛大に行われる様に色々
       な手段をこうじた事が、記録に残されております。唯今ではその奉仕
       が諏訪地方一円約五万世帯の氏子総参加へと範囲が縮小され、戦後は
       老若男女の区別なしに奉仕いただいております。
       御柱祭は御社殿を造り替えることと、その御社殿の四隅に奥山から伐
       り出す大木(おんばしら)を建てることの二つに大別されます。上下
       四社に四本ずつ、十六本の柱が建てられますが、明治以降は樅の木が
       使われ、上社の八本は約二十五キロ隔てた、八ケ嶽の中腹御小屋山の
       社有林から、下社の八本は霧が峰高原に続く国有林から約十二キロの
       里程を引き出します。
       寅、申相当の年の四月上旬に山出し祭、五月初旬に里曳祭が上社と下
       社では一週間の間をおいて奉仕されますが、独特の木遣りの歌と共に
       一本の柱につき千人から二、三千人の人々が曳行するため、身分の上
       下なしに、人々の和が必要とされて来ました。
       大きなおんばしらは長さ五十五尺(16.5米)周囲一丈余(三米余)
       重さが約十二、三トンにも及びますが、車もコロも使わず、人の力の
       みで引き摺るため原始的ではありますが、急坂を引き落としたり、川
       を引き渡したりして、怪我人が出ない方が不思議と言われる程に荒く
       郵送な行事として知られ、このお祭には数十万人の観衆を動員し、た
       めに、『人を見るなら諏訪のおんばしらに行け』とさえ言われており
       ます。
       柱を建てる理由については、多くの説がありますが、主なものに、祭
       場の表示、本殿の代わり、社殿建替えの代わり、神様のお降りになる
       柱等言われております。
       平安朝桓武天皇の御代から鎌倉幕府及び武田信玄の頃迄は柱の曳行の
       他に御社殿から鳥居に至る建造物の建替えが行われ、その経費や労力
       が、信濃国一国に割り当てられ、費用の調達のために、元服の式や結
       婚式が禁じられ、時には葬式も仮埋葬に留めさせられたこともありま
       した。現在では奉仕の範囲が縮小され、建物も宝殿三殿のみの建替え
       になり、厳しい規制もなくなりましたが、家屋の新築や婚礼を遠慮す
       るようにと言い伝えられております。
       諏訪大社の御柱祭がすみますと、その年の秋の祭の終わりにかけて、
       諏訪地方の沢山の神社で御柱祭が行われます。小宮のおんばしらとい
       いますが、小さな屋敷神にもすりこぎ位のミニおんばしらが建てられ
       ます。
       この御柱祭の年には、遠近から親戚縁者が集まるため、畳や襖の張替
       が行われ、又その人々の接待のために経費がかさみ、諏訪地方の人々
       は六年間働いて貯めたお金をこの一年のお祭で使ってしまうと言われ
       ます。」    
       とあります。
  住  所:長野県諏訪市中洲宮山一
  電話番号:0266−52−1919
  ひとこと:鳥居をくぐると、長い回廊があり、この時点で、思わず、
      「神様の気配を感じる」とつぶやいてしまい、同行の旦那と友人から、
      「生意気っ!!」と張り倒されてしまいました。
       やれやれ┐(´ー`)┌
       だって、気配がしたと思ったんだも〜〜ん。

       さて、
       諏訪大社のご祭神、建御名方神は、日本書紀には出てこない神様です。

       物部との関連が諏訪にあるのではないか、などという説もあり、興味
       深いのですが、それを調べるには、あまりにも資料が少ないため、古
       事記に出てくる建御名方神について、見てみましょう。

       物部氏について、調べてみたい、と言う方は、「諏訪大明神絵詞」に
       詳しいようです。
       ここにも詳しいですよ。

       諏訪にやってきたタケミナカタ神を迎え撃った、モレヤ神と、モレヤ
       神の子孫で、諏訪大社の初代神主となった、守矢氏と、物部守屋との
       関連が噂されているようです。
       また、諏訪では、「ミシャグチ神」と「モレヤ神」が土着の神とされ
       てきたのだそうです。
       ミシャグチ神とモレヤ神は同じ神様の別名だ、という説もあるようで、
       はっきりはしません。

       さて、建御名方の神は、古事記の国譲りの條にでてきます。

       建御雷と天鳥船が出雲の国の伊耶佐の小浜で大国主に国譲りを迫った
       時、長男の事代主は御大の埼にいました。
       そこで、天鳥船が使いとなって、事代主に国譲りの是否を問うと、
      「謹んでお譲りいたします」
       と、船を傾け、逆さまに手を打つと、青々とした神籬が忽然と現れま
       した。
       そして、事代主神は、その中に鎮まりました。

       ところが、次男の建御名方神は、力自慢です。
       大石を片手で持ち上げて登場し、
      「誰だ、私の国にきて、勝手なことを言っているのは」
       と、建御雷に力比べを挑みます。
       ところが、建御雷の手は、氷の刃物のようでした(って想像できんけ
       ど)。

       建御名方は驚いて、手を離して、あとずさりすると、建御雷は、
      「私の番だ」
       と、建御名方の片手をむんずとつかみ、ひきちぎってしまいました。

       逃げる、建御名方、追う、建御雷。
       とうとう諏訪湖で、建御名方は追い詰められてしまいました。
       そこで、建御名方は、
      「私はこの地から決して出ません。また、出雲の国は、父・大国主の申
       す通り、差し上げますから」
       と、命乞いをし、諏訪にお鎮まりになりました。

       二人の息子が国譲りに賛成しましたから、大国主命は、立派な御殿を
       要求したのち、そこに鎮まりました。

       と、いうのです。

       が、もし、この神話がその通りならば、なぜ、「武勲の神」としての
       信仰が篤いのでしょうか?

       栞には明記されていませんでしたが、諏訪には、独自の、古事記とは
       違う伝説があるのかもしれませんね。

       少しでもその名残はないものでしょうか?

       とりあえず、「物部氏との関連」に期待を託して、先代旧事本紀を見
       てみましょう。

       えぇっと、「天神本紀」の中ですね・・・。
       う・・・。まったく、まったく同じ描写でした。

       とほほのほ〜。

       しかし、冒頭にあげた、「諏訪大明神絵詞」では、タケミナカタ神は、
       外来の神で、地主神であった、モレヤ神が、迎え撃ち、結果、タケミ
       ナカタ神が勝利した、となっていますね。

       しかし、見てください。諏訪大社の初代神官は、敗者である、モレヤ
       神の子孫である、守矢氏です。

       つまり、雌雄を決したのちも、勝者である、タケミナカタ・諏訪氏は、
       敗者のモレヤ神・守矢氏を追い出したりすることなく、共存したこと
       が伺えます。

       その点、出雲に国譲り談判にきた天神とは大きく違いますね。

       だからこそ、「武勲の神」として尊崇されたんでしょう。

       最後に、全然関係ないようなことを思い出してしまいました。
       旧約聖書の本編にはないのですが、続編に、「ユディト記」つぅのが
       あります。
       ユディトとはどういう人物かといいますと、
       ベツリアの町に住む、裕福な未亡人で、美しく、信仰心が厚い女性で
       した。
       しかし、ある日、ベツリアを、ホロフェルネス率いるアッシリア軍が
       包囲したんです。

       ユディトは召使とともに、アッシリアの陣地へ行き、
      「ベツリアの町はもう神の加護のない町。攻略方法を教えましょう」
       と、敵将ホロフェルネスに近づきます。

       攻略法を教えるという言葉にか、ユディトの美しさにか、ホロフェル
       ネスは彼女に気を許し、酒宴を開き、大酒を飲む、のむ。
       ユディトは、ホロフェルネスが酔いつぶれて寝込んでしまうのを待ち、
       首を切り落として、ベツレアの町へ凱旋。

       つぅような美しく強く賢い、ヒロインの典型みたいな女性ですね。
       まぁ、ホロフェルネスは酒飲んだだけじゃない、と、されてますけど。

       さて、ここに、ユディト・コンプレックスという言葉があります。
       フロイトが考え出した言葉なんですが、どういうコンプレックスか。
       この神話から、想像つきます?

       解説すると、
      「お前、女っつぅのはよ。
       結局よ。
       強い男に進んで身を任せたいと思うモンなのよ。
       そんでよ。
       そのくせ、自分の操を汚した男を憎むモンなのさ。」

       というわけです。

       その考え方が、あってるかどうかは、ともかく。

       女に限らず、強いものに憧れる気持ちってのは、誰でも持ってるんじ
       ゃないですかねぇ?
       だから、モレヤ神も、タケミナカタを受け入れ、受け入れられたタケ
       ミナカタ神も、モレヤ神を大事にしたんじゃないか、そんなこと、考
       えてしまいました。

       としたら、出雲の国譲り交渉にきた人々は、あんまし強くなかったの
       かも・・・ね。

       力関係がはっきりしてる争いの方が、同程度の者同士の争いよりも、
       悲惨にならない。
       それは、ある程度、証明されているような気がします。
       
       後記
       本宮の参道手前に北斗神社なる小さい祠がありました。
       200段の急で狭い階段を上らなければならないし、本殿ができたのは
       江戸時代とのことですが、祭祀自体は古いんじゃないかと思ったので、
       とりあえず参拝。
       
       登りより降りが怖かったです(´・・`)

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