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高瀬神社

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  祭  神:天御中主命
  説  明:由緒略記を転載
      「御祭神
       日本神話によれば、天地開闢の時、高天原に最初に現れた神とされて
       います。また天孫降臨以前から大和に居坐せし神ともいわれ、天御中
       主命を御祭神とするところから当社の鎮守の歴史の古いことが伺われ
       ます。従って、太古の昔から氏神として各時代の人々は、御神徳を称
       えて奉祀してまいりました。
       式内社
       当社は延長五年(927年)醍醐天皇の命により編集された延喜式の
      「神名帳」に所載された神社で、式内社と呼ばれ、日本神社庁所属神社
       79,042社の内、式内社は、3,13座に限り日本で公式な記録
       に残る最も古い神社のひとつであり、北河内七市ではこの式内社は五
       座で、当守口市では当社と金田町の津嶋部神社の二社のみであります。
       また、当社付近(長池町)から出土した流水文様の弥生式土器(守口
       市役所に保存)は西暦紀元前後と推定され、二千年もの遠い昔から当
       社は五穀豊穣、災厄排除を祈る人々の心のより処となっていたことを
       物語っています。
       鬼門の守護神、厄除の神
       当社は古代の難波京(現在の大阪市)の表鬼門(東北・艮)の地に位
       置するところから鬼門の守護神として重責を果たして来ました。南北
       朝時代には、河内十七カ庄の里人が尊崇した神社でありましたが、元
       亀天正年間に織田、三好の兵火で焼失し、江戸中期に再建され、鬼門
       の守護神、厄除の神としてあがめられてきました。
       諸道、諸芸の上達祈願の神
       古代に当社付近は長柄船瀬という大阪湾の東端の港で、当地方は住吉
       大社の領有地と考えられています。住吉大社の神宮で古代難波の海上
       権を掌握していた名族の津守氏と当社とは永く強い結びつきがありま
       した。津守氏は代々和歌に長じ、各勅撰、私撰集に数々の歌を遺され、
       平安時代から鎌倉時代にかけ津守氏の力添えを得て公家、大宮人が競
       って当地を訪れ、多くの歌を詠じて神社に献じています。
       また室町時代中期に河内の榎並に起こり、やがて五流能の金春に吸収
       された榎並申楽(能楽の源流)の芸道者から、当社は手厚い信仰を受
       け、芸の上達を祈願されたもので、能楽と当社は深い因縁に結ばれて
       いるのであります。
       高瀬の里
       平安時代の初め頃(約千年前)当社付近は、淀川と大和川の水路が交
       わる要地で、淵や瀬のおもむき、淀みに茂る水草、水鳥の風情、里の
       風物など、詩情豊かなところで都人や旅人の親しまれました。
       平安時代には高瀬の里、高瀬の淀といって有名な歌枕となり、当社を
       詠んだ多くの歌が当時の歌集に残されています。
        さしのぼる 高瀬の里のいたずらに 通う人なき五月雨の頃
                               衣笠内大臣
        水まさる高瀬の淀の真こも草 はつかに見てもぬるゝ袖かな
                               殷富門院大輔」
  住  所:大阪府守口市馬場町1−1−11
  電話番号:06−6996−4808
  ひとこと:栞にあるように、津守氏といえば、住吉大社の神主家、高瀬神社とご
       縁が深いというのは、この神社が住吉の領地だったからでしょうか?
       それとも、神主家同士にご縁が深かったのでしょうか?
       
       この神社の栞によれば、神社創建のころから、天御中主命を祀ってき
       たということになりますが、天御中主という神様は、実は、陰陽道が
       日本に輸入されてから作られた神様なのではないか、と言う説があっ
       たりします。

       そして、「天御中主」とは、天の真ん中にいつも居座っている星・・
       つまり、北極星のことである、とも言われています。

       もし、これらの説が真実であれば、高瀬神社創建当時のご祭神は、天
       地開闢の時、真っ先に生まれ出でたと、当時されていた神様か、もし
       くは、北極星を神聖視した神様だったということかも知れません。

       一体どなただったんでしょうね?

       そういえば、「ご縁が深い」住吉大社のご祭神・三筒男神は、オリオ
       ンの三ツ星のことだと言う説もありました。
       星つながりなんですね。

       さて、榎並申楽とはどのようなものなのでしょうか?
       どうも、「丹波猿楽」と同じ流れなようで、南北朝時代から、室町時
       代に栄えたようです。

       特に、「馬の四郎」と呼ばれる舞手は名手で、観阿弥も影響を受けた
       といわれているそうです。

       詳しくは、大阪市のホームページをどうぞ。

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