hitokoto

鞆呂岐神社

tomorogi





  祭  神:天照大神 春日大神 住吉大神 恵比須大神 神功皇后 豊受大神
  説  明:寝屋川市史を転記します。
      「鞆呂岐神社は二十か用水の樋門のある村の氏神として、昔から崇敬され、
       用水関係の村から寄進された石灯篭もある。明治初年に神社合併が奨励
       されたときにも、多くの村々が神社合併を行う中で、木屋村は基本財産
       をつくり一村でもって神社を維持してきた。この神社は六社大明神と称
       して六神をお祀りしている。しかし、時代の移り変わりの中で六神にも
       異動があった。もともとは天照大神・春日大神・住吉大神・恵比須大神・
       稲荷大神・蔵王権現をお祀りしていたという。その後、稲荷大神を末社
       として分離したので、代わりに神功皇后をお祀りしたそうである。また、
       明治の初めに神仏が分離されたとき、蔵王権現は仏教的であるというの
       で、代わりに豊受大神をお祀りした。
       また奥の宮といって境内奥の台地に若宮八幡の社がある。祭神は八幡さ
       んであろうといわれている。しかし、その横に『茨田蛇の池の址』と彫
       られた石碑が建てられており、なお考え直すべき余地があろう。これに
       関連した行事として、十月の祭礼には米の粉を水で練り合わせた団子を
       つくり、それを椿の葉に乗せて『ひなだ』に供えるそうである。ていね
       いない絵は団子を人形の形にしたり、こも巻きご飯を作ったりして供え、
       とくに奥の宮には大きなものを作って供えたという。このような風習や
       昔話からして奥の宮の祭神にすいては、いろんな伝承がある。右の行事
       も『ひなだ』がほとんどなくなった現状では廃れつつある。
       祭礼は春四月、秋十月の十六日と定められていた。とくに秋の祭りは盛
       大である。この日にはいろいろな行事が行われた。
       その一つは『ねりこみ』であった。六人の男がそれぞれ立派な飾りのつ
       いた大提灯を長い棒の先につけて一本ずつ持ち、伊勢音頭の『やーとこ
       せ』を唄いながら、お宮から南へ一直線に馬場前橋まで往復した。この
       大提灯は、よほどの力持ちでないと重くて持つことができないので、力
       自慢のものが選ばれた。もちろん祭礼のこととて酒を飲んでいるので、
       ときに倒してしまうことがあり、修理費用が大変だったようである。
       その二は、にわか・おどり・まんざい・獅子舞など素人芸の催しである。
       独特の村言葉で、酒の勢いも加わり、自由な表現で行ったので、随分人
       気があった。獅子舞は特に技術が必要なので、前もってどこかの広い納
       屋を借り、毎晩、箕でもって獅子舞の代わりにして稽古したそうである。」
       別の寝屋川市史にはこうあります。
      「享保八年(1723年)四月二十五日の文書に神事は九月六日で、『氏
       神相殿、天照大神、春日大明神・住吉大明神・稲荷大明神・蔵王権現・
       恵比須』の六柱、北方において東西三一間(約5.8m)南で東西十間
      (19m)とある。六祭神なので六社大明神という。
       社伝では清和天皇の貞観三年(861年)の勧請とあり、祭神について
       は明治維新に神仏混交廃止があったというので、『大阪府全志』などで
       は蔵王権現を除いた五座になっている。
       明治三十年十一月の氏神由緒書上帳では、
      『一、祭神相殿・天照大神・天児屋根命・表筒男命・中筒男命・底筒男命・
       事代主命・倉稲魂命・安閑天皇』と記している。
       さらに年代不詳の社記(おそらく明治三十年代の神主の手記であろう)
       には『天照皇大神・豊受大神・住吉三社大神・息長足姫神・天児屋根命・
       蛭子大神』としている。息長足姫尊とは神功皇后のことである。
       なお大阪全志では『大将三年七月二十日大字木屋字裏の無格社若宮八幡
       神社(誉田別命−すなわち応神天皇)を合祀せらる』とあるが、若宮八
       幡は古くから境内末社として祭られ、村人は奥宮と称している。また前
       記社記の中に『奈良朝末淳仁天皇の御代近侍前原保則卿』が『天長八年
      (831年)五月従者と伴い、駒駢て淀川堤を逍遥せられ』『翌年令して
       東赤井堤南御供堤を築き云々』とあるが、保則は寛平三年(891年)
       に七十一歳で死んだ人であるから、天長八年にはわずか十歳の子供であ
       り、いわんやそれより七十年も前の奈良朝の淳仁天皇の近侍などになり
       得るはずがない。・・・など不明瞭な点が多い。
       神前の石灯籠は慶応二年(1866年)西尾座中から奉献されたもので、
       拝殿前の大きな石灯篭は二十か用水樋の水源にある水の神様として、用
       水掛の各村から文久三年(1863年)九月に寄進されたものである。
       奥宮の鳥居に次の銘文が刻まれている。
      『播州赤穂城主浅野長矩家中四七人之内村松喜兵衛秀直四代の孫、村松喜
       兵衛源尚次』
       宮座はもと九軒あり、祭りには米飯のコモ巻に魚のカマスを添えて本社
       に六本、若宮に一本を供えた。

       木屋のヒトミ祭
       木屋では毎年十月十七日の氏神(鞆呂岐神社)の祭礼に、ヒトミ祭り
      (人身祭?人身供養の意?)といって、米の粉を水でとき、ツバキの葉の
       上にのせヒナダ(家の水洗場)に供える。もっと念を入れたものでは、
       なま団子を人の形に作り、こも巻きの蒸し飯をツバキの葉の上に乗せて
       祭る。そして氏神の奥の宮、すなわち若宮八幡の前にはこれを二升(約
       3.6L)の飯ヒツくらいのふたの上に乗せたものにともに供える。奥
       宮の後方は今わずかに小さな池を残すだけのたんぼになっているが、も
       とは赤井堤防の辺まで一帯に大きな池であった。この池の主は大きな蛇
       で奥宮の御神体だといわれている。この大きな蛇は遠く大和境の田原辺
       まで出没したと伝えられ、人に害するのを恐れて、人身御供の代わりに
       前述のような奇習がうまれたものと思われる。オコリ(マラリヤ)をふ
       るう時は奥宮へ参るとすぐなおると云う。
       木屋のへび祭り(十月十七日の祭礼)にはいつも、雨が降るといったよ
       うな伝説も多い」
  住  所:大阪府寝屋川市木屋町10−25
  電話番号:
  ひとこと:由緒らしきものがどこでも調べられなかったので、市役所へ行って、市
       史をコピーしてきました。

       なんで、珍しくリキが入っているかといいますと、ですね。

       この神社の奥宮にある石碑、「茨田蛇の池」。
       茨田という名前に覚えはありませんか?
       私にはあります(そりゃそうやろ)。

       古川に、日本最古の堤防「茨田の堤」が作られた時、河伯(川の神)が、
       生贄として要求したのが、茨田連杉子なんです。
       この茨田連杉子に関連する神社が、堤根神社。
       同名の神社が、古川沿いに三社も存在しています。

       この時、茨田連杉子は、機知により、人身御供になることを免れていま
       すが、同じく生贄として要求された武蔵の人・強頚は、泣く泣く川に沈
       められてしまいました。
       つまり、この古川の神は、生贄を要求する神なんです。
       それが、この「蛇の池」の神なんじゃないか?
       と思ったら・・・。
       ヒトミ祭ってのは、まさしく、この神が生贄を要求する神であったこと
       を物語っていませんか?

       いやぁ、すっきり、めでたしめでたし。
       ・・・と、言いたいところなんですけどね。

       なんか、おかしい。

       寝屋川市役所に行くと、いろんなパンフレットが置いてありましたが、
       中でも目立つのが、「治水」「水運」「洪水」などのキーワード。
       この辺りは、昔から水害による被害が大きかったのだということが、推
       察されます。

       暴れ川が、蛇神として恐れ、崇拝されることは、理解できます。
       ただ、その蛇が「茨田」の蛇だとしたら、なぜ、その生贄に、武蔵の人
       と茨田連の人間を指名するのでしょう?

       茨田の人間を指名するのはある意味筋が通ってるかもしれません。
      「洪水による災害という大きなマイナス」を生める代わりに、「生贄とい
       う地域の人々全体にとっては比較的小さなマイナス」で代替せよ、とい
       うわけですよね。

       でも、それでは、なぜ武蔵の人を?

       しかも、茨田連杉子は、生贄になることを回避しているんです。

       そして、堤建築による恩恵を受けない、強頚だけが水の中へ。

       なぁんかおかしい。
       なぁんか変だ・・・。

       そして、川の神は、強頚の生贄だけで満足し、堤は完成します。

       まるで最初から、杉子は「形だけ生贄になる」と、決められた茶番劇の
       ようです。

       現に、現在の古川の神は、人の形に作られた餅の粉だけで満足して、川
       を暴れさせることは、ほとんどないようです。
       杉子の時代も、この川の神は、「本当の生贄」を望んでいたわけではな
       かったのかも・・・。
       ただ、「ヒトミ祭」の執行を求めていただけなのかも・・・。

       だとしたら、殺された強頚とは、いったい何者だったのか?
       こっちが気にかかってくるのであります。
       非常に、ひっじょ〜に・・・。

home 神社のトップに戻ります back