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鹿高神社

kataka





  祭  神:鹿高神 天児屋根命
       配祀:蛭子命 五男三女神 應神天皇 建速須佐之男命 大物主命 菊理比賣命 宇迦能御魂神
       奧津日賣命 奧津日吉神 市杵島比賣命 大日靈貴神 八意思兼神 火之迦具土神 大山祇神 
       大綿津見神 
  説  明:ご由緒書きから転載します。
      「由緒
       古記録『類聚国史』によると、祭神がその土地の人たちに深くかかわりのあるか見にし、時の朝廷が祭神に
       位を授けた神位階を授けた。八〇六年に正六位、八七さんねん従五位下をさずけられている。伊賀で十二社、
       内名張で現在の宇流富志禰神社と鹿高神社の二社のみで、当社は格式の高い神社であることがうかがえる。
      『安部田村由来記』には『慶雲三(706)年三月鹿高神社を斎き奉る』と記されている。この記述に従うと、
       今から約千三百余年程前から御鎮座されていることになる。
       由来
      『安部田村由来記』、又、『三国地誌』には壬申の乱(天武天皇一年、六七二年)の折、大海人皇子(後の天
       武天皇)が大和吉野より美濃路に向かう為、伊賀に入られんとした時、戦いの気配せっぱづまり、加えて盆
       をひっくり返したような激雨で宇陀川は氾濫して波荒れ狂い、更に更に夜は深々と更け川を渡られることま
       すます困難な状態でした。その時、神の化身か二頭のしかが突然現れ、皇子を対岸へお渡し奉ったが、ここ
       で一頭の白鹿に変られたので片鹿(鹿高)の名が残っております。渡ったこの地を今『兵渡(兵頭)の瀬』
       と呼ばれている。現在地区で通称『ひょうど』と言っている。
       大海人皇子は大変喜び、感激され壬申の乱後この地に春日の大神を祀り、加陀賀神社と称えられていました
       が、明治の合祀のさい主神『鹿高神』の名を戴いて『鹿高神社』と称し、
       境内案内板から転載します。現在にいたっている。本殿裏には名張市文化財に指定されている六世紀頃に築
       造された全長約四十二メートルの前方後円墳、それと円墳が二基あります。先の皇太子浩宮殿下も昭和五十
       四年十一月に御親拝されました。往古より安部田地区二百戸の産土神としてご加護いただき、智謀学徳、農
       業の神として信仰をあつめています」
      「当神社の主神『鹿高ノ神』は、三代実録に、貞観十五年九月、正六位上から従五位下に進められ給へる由を
       記された国史現在の神で、安部田村由来記には『慶雲三年三月鹿高の神を斎奉る』とあり、往古より村の守
       り神、智謀学徳の神として御神威を発揮され、多くの信仰を集めている。明治四十年四十一年に地元各地に
       点在の無格社を合祀し、御祭神『鹿高神』の名を戴いて『鹿高神社』を称し現在に至る。
       例祭は十月二十日、二十一日であったが、現在は十月二十日、二十一日に近い土曜日、日曜日と成っている」
       境内裏には古墳があるようで、説明がありました。
      「鹿高神社の境内には、前方後円墳一基と円墳二基の、三基の古墳が所在する。
       社殿後方の丘陵頂上部に位置する鹿高神社境内古墳は、全長42メートルの前方後円墳で、前方部と後円部の
       2ヶ所に横穴式石室が開口する、数少ない形式の古墳であり、昭和四五年九月七日に名張市の文化財に指定
       されている。
       後円部の石室は、全長9.8メートルで、一辺2メートル前後の大きな石材で築かれている。前方部の石室は、
       長7.65メートルで、一辺50センチ前後の小さい石材で築かれている。
       出土遺物は、後円部石室から出土した須恵器の台付長頸壷、広口壷と墳丘で確認された埴輪円筒の破片など
       がある。
       この古墳は、出土遺物から、六世紀中頃の築造と推定され、名張盆地を治めた首長層を葬ったものと考えら
       れる。
          名張市教育委員会
          鹿高神社」
  住  所:三重県名張市安部田1942
  電話番号:
  ひとこと:『安部田村由来記』というのがどういう書物か気になりますね。
       この神社は元春日であるという情報を得て参拝したのですが、タケミカヅチとフツヌシが鹿島・香取から大
       和入りするとき云々の伝承はないようです。
       
       大和入りに途中で立ち寄ったのは、タケミカヅチではなく大海人皇子。
       ふむ。
       
       私、春日といえばむしろ天智天皇&藤原鎌足の印象でした。
       天智天皇と越道君伊羅都売の息子は志貴皇子。追号春日宮御宇天皇です。
       そしてその子が春日王。母は託基皇女。天武天皇の娘ですから、天武と春日の線がないわけじゃないんだけ
       ど。
       
       だとしても、天武天皇と春日って、いまいちピンときません。
       ひっかかる神社です。

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