hitokoto

川俣神社

kawamata





  祭  神:大己貴神 少彦名神 保食神
  説  明:案内板を転載します。
      「川俣は、奈良時代〜平安時代に官社となった神社の一覧表に記載され、
       その頃から祈年祭には、鍬・靫(矢を容れて背に負う道具)が供えら
       れたと書かれています。
       川俣の地名は古くから知られており、『日本書紀』には、仁徳天皇が
       詠んだといわれている歌があり、その中に『・・・・・川俣江の菱殻
       の・・・』は、水辺に生い茂る菱を歌っており、この川俣は、当地で
       あるといわれています。
       奈良時代、僧行基が、川俣の一女性を救う話しや、東大寺の大仏造営
       時、河俣連人麻呂という豪族が、銭一千貫を寄進したと書かれていま
       す。また奈良時代の他の書物にも、川俣、河俣、川派(また)名が見
       うけられ、河俣氏は、古代からかなり勢力をもつ豪族であり、氏神と
       して川俣神社をまつったといわれています。
       神社地は『川中』という字名がついています。古代から地形の低いこ
       のあたりは、何本にも川筋がわかれたり、入り江や中洲が散在する状
       態であったと思われますが、こういう地形は、水運など交通の便もよ
       く、古代文化の受け入れる地であったと思われます。」
  住  所:大阪府東大阪市川俣本町
  電話番号:
  ひとこと:境内案内板には、平安時代のこの付近の地図も書かれていて、それに
       よると、河俣のすぐ北に、「大江御厨」という大きな池が存在したよ
       うで、そこから、恩智川、玉樺川、長瀬川などの川が流れ出ていたよ
       うです。

      「式内社調査報告」によると、古代の川俣神社は川俣公らの氏神ではな
       いか、と書かれていて、大己貴神・少彦名神は、江戸時代以来、地元
       で祀られてきた神なのではないか、と推理されています。

       川俣公らの氏神とは、彦坐王。
       実際に祀られていた時代もあったようです。

       靫と大己貴神・少彦名神とだけ聞けば、五条天神を思い出します。

       五条天神のご祭神も、大己貴神・少彦名神。
       徒然草に、疫病が流行ったりすると、五条天神の神が流刑にされたと
       いうことが記されている、ということは、知られています。
       そして、その流罪のしるしは、「靫」なのです。
       閉門に靫が架けられると、それは、「流刑」という意味になるのだそ
       うです。

       川俣神社は名のとおり、川の側の神社。
       流刑にはもってこいの場所・・・。
       そう思ったのですが。

       さて、仁徳天皇の和歌ですが、これは、応神天皇紀に登場します。

       応神天皇の妻となるはずだった、髪長姫と仁徳天皇は密かに通じて
       います。

       それに気付いた応神天皇は、髪長姫を仁徳天皇に譲ることにするの
       ですが、それに対する歌が、これです。

       ミヅタマル ヨサミノイケニ ヌナハクリ ハヘケクシラニ 
       ヰクヒツク カハマタエノ ヒシガラノ サシケクシラニ
       アガココロシ イヤウコニシテ

       大意は、
      「応神天皇の広い心を知らずに、(髪長姫と密かに契っていた)自分
       愚かでした」
       ということで、「カハマタヘノヒシガラ」は、長いものの喩えとし
       て登場するようです。

       感謝の歌に登場するわけですから、この川は、「良い地」だったの
       でしょうね。

       ちなみに、行基和尚の話しは、日本霊異記に出てきます。

      「行基大徳が子を連れた女に前世での敵を教えて、子を淵に投げさせ
       た話 第三十」
       が、それ。

       こんな話しです。

      「川派(かわまた)の里に一人の女がいた。子を連れて法会を聞きに
       行ったが、その子は盛んに泣いて、説法を聞かせなかった。その子
       は十歳をすぎても、歩くことができず、いつも泣いて乳を飲み、た
       えまなく物を食べていた。
       大徳は女に、
      『おい、その女よ、おまえの子を連れ出して淵に捨てなさい』 
       と言った。」

       げげ、なんてことを!

       その場にいた人達も同じことを思ったようです。
       しかし、女が行基和尚の迫力に負けて、子を淵に捨てたところ、子
       は、
      「なさけなや。あと三年間おまえから取り立てて食ってやろうとした
       のに」
       と「呪詛」の言葉を吐いたのです。

       母親は前世でこの子に何かを借りたまま返さなかったので、今世で
       取立てをくらったということ。
       それを見抜いて子を捨てさせた行基和尚はすごい人!
       そんな話しです。

       しかし、です。

       母親は、前世で借りたまま返さなかったんですよね。
       それなら、今世で返すべきだったのではないんでしょうか???

       つまり、母親は今世でも「借り逃げ」したわけです。

       なんかおかしい気がする(^^ゞ

       もちろん、「いつまでも恨み続けることは良くない」ことでしょう。
       恨まれる側にとっても、恨む側にとっても。

       でも、せめて、その子の恨みを解消させてあげるべきだという気も
       するのです。

       しつこく恨むのは良くない。
       それはそうでしょう。
       
       でも、説得するとか、借りたものを返すとか、その恨みを解消する
       方法はいくらでもあるはずです。

      「恨んだ人間を殺す」。
       という解決方法は、あんまりにも短絡的過ぎるような。

       しかしまぁ、「今世が一番大事」という考え方に基づく判断だった
       のかもしれません。

       もしくは、この物語は、「川俣」の話し・・・として意味があった
       とか。

       古典に地名が出てくる場合、その地名にはどういう意味があるのか
       と考えます。

       単に聞いたことをそのまま記録された場合もあるでしょうし、その
       土地になんらかの意味があって、その土地を出してくる場合もある
       んじゃないかと思います。

       とすると、この川俣という土地は、寿ぎにも関係があり、なんらか
       の怨念にも関係があった・・・可能性があるのかもしれません。

       靫・・・。
       この字は、「うつぼ」とも読みます。

       古来、「うつぼ船」「うつろ舟」に載って漂着したとされる神々は
       少なくありません。

       神功皇后もそうですし、淡島様もそう。
       そして・・・。少彦名命も、「ガガイモの船」という「うつろ舟」
       で漂着したのです。

       この川の流れに乗り、うつろ舟で・・・。
       神は漂着したのでしょうか。
       それとも、ここから流されたのでしょうか。

       私は、「漂着した話し」は、よく目にするのに、流された話はあまり
       にも少ないように思うのです。
       そう。
       蛭子命以外には。

       ・・・もし、ここから流された神がいたのだとしたら。
       なぜ、流されたのでしょうね。

home 神社のトップに戻ります back