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他田坐天照御魂神社

osadanimasuamaterumitama





  祭  神:天照御魂命 
  説  明:鳥居横の石には、天照御魂大神と刻まれた石が置かれていました。
       
       案内板などがありませんから、白水社の「日本の神々」を適宜引用します。
       
       まず、
      「延喜式神名帳の城上郡『他田坐天照御田魂神社(大。月次 相嘗新嘗)』の所在
       については、ほかに桜井市戒重字城の内の春日神社とする説がある」
       とあります。
       
       また、
      「本居宣長は、『古事記伝』の中で、敏達天皇の訳語田幸玉宮について、『さて、
       此宮は神名帳大和国城上郡に他田坐天照御魂神社あり此地なり。(中略)或説に、
       同郡の戒重と云処なりと云ふ。さて霊異記及神名帳には磐余訳語田とあり、帝王
       編年紀には十市郡とあり、古へは此の他田あたりまで石村(いわれ)と云て十市
       郡に属たりし時もありしにこそ』と書く」
       ともあり、磐余訳語田宮が、ここ他田坐天照御魂神社に所在したのではないかと
       書かれています。
       
       そして、
      「敏達朝の日祀部の設置は石塚建造から三百年弱あとであるが、現代の三百年と違
       って古代の時代はゆっくり流れている。先に『太陽観測』という言葉を用いたが、
       古代人にとって観測は祭祀であり、日祀りであった。石塚が築かれた太田の地に
       は、この日祀りの伝統が敏達朝の頃までつづいていたとみたい。
       ところで、石塚の中軸線を三輪山とは逆の方向に延長したところに鏡作坐天照御
       魂神社(田原本町八尾)がある。他田(太田)と鏡作(八尾)に天照御魂神社が
       あるのは、その市が三輪山から昇る太陽の祭祀とかかわるからであろう。他田と
       鏡作の祭祀は暦(日読み)にかかわる祭祀である。天皇のことを『日知り』と言
       うが、日祀部を設置した敏達天皇の〜」」
       と、太陽祭祀との関連性について言及されています。
       ちなみに「石塚」とはこの神社のそばにある「石塚古墳」のこと。立春の日に、
       三輪山山頂から昇る朝日を拝せる場所だそうです。
  住  所:奈良県桜井市太田205
  電話番号:
  ひとこと:敏達天皇って、あんまり印象がないんですよね(^^ゞ
       推古天皇の旦那さんってぐらい(^^ゞ
       
       あと、蘇我氏と物部氏の対立は、この天皇の時代に強まったと、日本書紀に書か
       れていることぐらいでしょうか。
       
       蘇我馬子が仏教を広めると同時に疫病が流行り、物部守屋は「神をおろそかにし
       て、仏を崇めたからだ」と言い募ります。
       天皇は「もっとも」と、仏法をやめるよう詔されたのでした。

       また、この天皇が「日祀部」「私部」を置かれたのは、敏達天皇六年二月一日の
       こと。
       
       でも、日祀部でどのような祭祀が行われたのかについては、まったく触れられて
       はいません。
       
       ただ、この神社のそばにある石塚古墳は、立春の日、つまり旧暦の正月にあたる
       日、くどく言えば旧暦で言う一年の始まりの日、三輪山から昇る太陽を拝める場
       所であるというのがちょっと面白い。
       
       言ってみれば「初日の出」を拝む場所ですよ。
       んまぁ、なんだか素敵じゃありませんこと?
       
       そのちょうどひと月後に、日祀部が設置された。
       いったいぜんたいそれはどういうことなのでしょうね?
       
       どうして立春に間に合わせなかったんだろう?
       
       ……まぁ、それはあまり関係のないことかもしれませんが。
       
       とにかく。
       私が気になるのは、「大和朝廷の長である天皇」が、「純然と太陽を祀る神社」
       なのであれば、なぜ、「天照皇大神」ではなく、「天照御魂神」を祀っているの
       かということです。
       
       ご存知の通り……かどうかはわかりませんが、天照御魂神というのは、なんとも
       いろいろな神様が入り混じっている感のある神様です。
       
       例えば、「天照国照天彦火明大神」という神様がおられます。
       天照国照天彦火明大神というよりも饒速日命と言った方が通りが良いでしょうか。
       物部氏の祖神です。
       
       饒速日命は瓊々杵尊の兄神であり、先にこの地上へやってきて、人々を支配して
       いました。
       
       しかし、瓊々杵尊のひ孫にあたる神武天皇がやってくると、盟友であり妻の兄で
       もある長髄彦を殺してまで、神武天皇に土地と支配権を譲った……と記紀神話は
       語ります。
       
       しかしその理由はまったくよくわかりません。
       饒速日命がスパイだったというのならば話しは通りますが、何しろ神武天皇の曽
       祖父の御兄さん。
       
       スパイとしてもあまりにも気が長すぎやしませんか?
       
       どちらかというと、饒速日命は神武天皇と血縁関係でもなんでもなかった。
       ただ、神武天皇が長髄彦を攻め、土地を奪い取ったとするのでは聞こえが悪いの
       で、饒速日命が率先して譲ったとしたと考える方が自然です。
       
       出雲の国譲りにおいても、大国主が息子たちを犠牲にした末、国を譲ったと書か
       れていますが、実際はそうではなかったでしょう。
       大国主は息子たちと共に闘い、殺されたのでしょう。
       そして、お墓として出雲大社が作られ、出雲は高天原に奪い取られた。
       
       饒速日命の事情もまた、同じような感じではなかったでしょうか?
       
       その饒速日命が天照御魂神だというのなら、なぜ、敏達天皇は天照大神ではなく、
       天照御魂神を祀ったのでしょうね?
       
       敏達天皇と物部守屋公の「近さ」も気になりません?
       なんせ、饒速日命は物部氏の祖先ですから。
       
       個人的には、大和朝廷が出来たのは、持統天皇の時代であろうと考えています。
       なぜならば、その時代に日本書紀が作られたから。
       
       なぜ、「天皇は太陽の最高神・天照大神から続く正当な日継ぎである」と宣言す
       る必要があったのでしょう?
       
       対外的にそれを宣言する、なんらかの書物が必要だったとする考え方もあります
       が、新興の支配者が登場したとき、それまでの歴史を塗り替えるために「正史」
       として、自分たちの正当性を謳った書物を作り上げたと言う方があり得る話しだ
       と思うんですよね。
       
       とすれば敏達天皇とは、いったいどんな人物だったのか?
       守屋公の廃仏運動を助け、天照御魂神を祀る「日祀部」を置いた天皇とは?
       
       蘇我家と物部家はこのあたりを支配する二大豪族で、二つの家はつかず離れず、
       争いをすることもない代わりに、さほどベタベタする関係でもなかった。
       
       二つの豪族はそれぞれに祀る神、仏があり、それぞれに信仰をしていた。
       
       敏達天皇は物部側の長であった。
       
       後に日本書紀が編纂されるとき、この地に「天皇」がいなくては話しが通らない
       から、物部の長を、大和朝廷がいただく天皇であったことにして話しを作った…
       そう考えるととても話しが通りますよね(笑)
       
       もちろんそれは私の勝手な想像ですが。
       
       でも、そう考えたら、すっごくシンプルなんですけど?
       さて、どうでしょう。

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