hitokoto

白鳥神社

shiratorikagawa





  祭  神:日本武尊 両道入姫命 橘姫命
  説  明:ご由緒書を転載します。
      「日本武尊は人皇十二代、景行天皇の皇子に存らせられ、勅命に依りて九州中国を、
       その後東国を征定し給ひ環啓の途次、近江国の伊吹山にて癘病に触れさせ給ひ尾
       張国を経て伊勢国能褒野に至り病篤く、遂に薨じ給ふ。
       御年三十、実に、景行天皇四十一年なり、天皇其の功を録し武部を定め群臣に命
       じ其の地に山稜を造り厚く葬り給ふ、群臣入棺し奉りしに、神霊白鶴に化し西方
       に飛び去る、棺内には只衣冠のみ空く在す、其の白鶴は大和国琴弾原に、又飛て
       河内国旧市の邑に至り亦更に飛て讃岐国大内郡鶴内の里に止り給ふ、依て此の所
       に神陵を建てさせ給ふ。
       成務天皇の御宇、天皇の御兄弟神櫛王をして日本武尊の御子、武鼓王に従随せし
       め給ひ讃岐の国造に封じ神陵を監せしめ給ふ。
      (武鼓王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり)日本武尊の御子
       仲哀天皇の御宇神籬を建て封戸を寄せらる。今の神社即ち其の御跡なり。
       爾後一盛一衰ありしも武家は弓矢の神と為し崇敬深かりき。
       寛文四年讃岐守高松藩祖松平頼重侯大に其の規模を拡め、社殿の修築をなし、領
       地を割き神領に寄し、幕府の朱印地に改めたり。
       明治五年県社に列せられ現在に及べり。」
  住  所:香川県ひがし香川市松原字新町69番地
  電話番号:0879-25−3922
  ひとこと:記紀神話にある、大和武尊の白鳥とは、随所に違いがあるのがわかるのではない
       でしょうか。
       
       まずは、大和武尊の魂が最終的に鎮まった場所。
       記紀神話では、河内の古市であるとしていますが、この神社の伝承では、そこか
       らまた飛び立って、讃岐の鶴内の里に止まったとしています。
       
       また、記紀神話では、大和武尊の魂は鵠(くぐい)……つまり、白鳥となったと
       していますが、この神社では、鶴。
       同じく大きな白い鳥ですが、白鳥と鶴では少し印象が違いますよね。
       
       この違いはなんなんでしょう?
       
       宮司さんにお話しを聞くと、この伝承は、本居宣長の「古事記伝」に記録されて
       いるものなのだとか。
       また、この神社のそばに「鶴羽」の地名があり、ここにも白鳥神社があると言う
       お話しでした。
       残念ながら、地図や資料にはその神社がなく、参拝できなかったんですが……。
       
       宮司さんはとてもにこやかな方で、私が河内の古市に住んでいたことがあるとお
       話しすると、
      「大和武尊の魂が、最後讃岐へやってきたという伝承が嘘だと言われると困るので
       すが……」
       と苦笑をされました。
       
       でももちろん、この伝承が嘘だというわけではないです(#^.^#)
       古代日本には、各地にそれぞれの伝承があったでしょうし、どれが正解だなんて
       ことはありません。
       
       ただ、この神社の白鶴伝承と、大和武尊を関連づけたのは、本居宣長や同時代の
       国学者ではないかという気もほんの少し。
       
       と言いますのはですね。
       この神社の裏に、猪熊邸という立派な邸宅が残されていて、そこにはこんな案内
       板が立っていたからなのです。
       
       ちょっと転記しましょう。
       
      「この屋敷は、寛文四年(1664)に、藩祖松平頼重公によって京都から招かれ
       た、公家の猪熊兼古が、隣接白鳥神社(現在無縁)の神官住居として拝領したも
       ので、敷地三千坪と云う。
       この厚遇は、兼古朝臣が藩主の弟、水戸光圀に、神道・国学で尊崇された事によ
       る。」
       
       つまり、江戸時代、1730年生まれの本居宣長よりも以前、国学の大家がこの
       神社に神官として招かれているわけです。
       
       その当時の国学では、大和武尊は英雄中の英雄、ビッグネームですよね。
       そして、白鳥と言えば大和武尊。
       
       ここ、讃岐の白鳥神社が、別の白鳥伝承を持っていたとしても、
      「白鳥と言えば、大和武尊でしょう!!」
       とごり押ししてしまった可能性は……ないとは言えないと思う(^^ゞ
       
       だって、この神社のそばに「鶴」という地名が多いんですよ。
       すぐ西には、「鶴羽」が。
       GOOGLEマップをみると、高松市西春日町1062には「鶴尾神社」が鎮座
       するとなっています。
       
       平成祭礼データの資料をひっぱってくると、ご祭神は、氣長足姫尊・譽田別天皇・
       莵道稚郎子       尊。
       ご由緒は、
      「鶴尾神社は平城天皇の(806〜809)の創祀で陽成天皇の元慶三年(879)
       霊鶴の奇瑞にちなみ鶴尾八幡宮と奉称した。仁和年間に国司菅原道真公が、現在
       地南東坂田村土居の原に奉遷、社殿を営築し土居宮と奉称した。元禄四年
       (1691)に濁池築造のため現在地に遷座再び鶴尾神社と復称した。明治六年
       (1873)郷社に列格される。昭和三十一年(1956)社殿を新たに営築し
       現在に至っている。」
       とありますから、「霊鶴」の奇瑞があったわけですよね。
       それがなんなのかわからないのが残念なんですが……。
       
       WIKIをみると、この社名の由来は、鶴尾校区コミュニティ協議会の記述を引
       用して、
      「鶴尾地区から見える峰山が「鶴が羽根を広げたよう」に見えたことが起源とされ
       ている」
       とあります。
       
       つまり、このあたりにおける「鶴」は、大和武尊ではなく、峰山のことでは?
       ……と思えるんですよね。
       霊鶴の奇瑞とは、どこかから聖なる鶴がやってきて、峰山に降り立った……とか?
       
       それだけじゃありません。
       淡路島の南あわじ市にある、諭鶴羽神社のご由緒が気になります。
       平成祭礼データから引用してみましょう。
       
      「社伝によると、およそ二千年の昔第九代開化天皇の御代にいざなぎ、いざなみ二
       柱の神さまが鶴の羽に乗り給い、高天原に遊び給うた。狩人が鶴の舞い遊ぶのを
       見て、矢を放つ。羽に矢を負った鶴は、そのまま東の方の峰に飛んでかくれた。
       狩人、その跡を追って頂上に至ると榧の大樹があり、その梢にかたじけなくも日
       光月光と示現し給い「われはいざなぎ、いざなみである。国家安全、五穀成就を
       守るため、この山に留るなり、これよりは諭鶴羽権現と号す」と唱え給うた。狩
       人涙を流し前非を悔い、その罪を謝し奉り、長く弓矢を捨てその地を清め大工を
       招き一社を建て神体を勧請し奉る。狩人、権現の社を受領して庄司太夫と号し一
       生神に仕えたりという。社名・社紋鶴丸の起こりであろう。」

       東かがわ市と近いとは言えませんが、瀬戸内海を挟んだ淡路島でも、鶴の形をし
       た山が、ご神体として拝まれているんですね。
       しかもこの山でも、霊鶴の奇瑞があった。
       
       古来、鶴は神聖な鳥と考えられていました。
       
       白鳥よりも人里に近い場所に生息する、純白の大きな鳥。
       頭の頂にある朱い験も、神聖さを際立たせていたと思います。
       
       阿波忌部氏は、海洋民族の文化を色濃く持っていた人たちです。
       山を拝み、海を拝み、空を翔ける鳥を神の使いと大いなる憧れをもっていた人た
       ちです。
       
       私的には、私的にはですよ?
       この神社の社名は、大和武尊よりもっと古いもの。
       
       縄文時代から続く、山、そして鳥を拝む神社だったのはないか、と。
       そう考える方が自然なような気がするのですが……。

home 神社のトップに戻ります back