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石坐神社

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  祭  神:豊玉毘古命 海津見神 彦坐王命 天命開別命 大友太子命
       伊賀采女宅子媛命
  説  明:雨乞いの霊験で知られる神社です。

       彦坐王命は、開化天皇の第三子。
       彦坐王命の四世の孫にあたる治田連が、近江の初代国造となり、
       湖南地域の水利治水、農・漁業の開発・発展に大きな成果をあ
       げられたそうです。

       延喜式神名帳には、石坐(いわゐ)神社は、彦坐王を祀る、と
       記されているのだそうです。

       また、天智天皇の御世、旱魃が起き、里人が憂いていたところ、
       南の山上に夜毎、火光があり、天皇の勅使が山の上に遣わされ
       たところ、その前に龍が飛来し、小童に形を変え、
      「われは海津見神の幸魂。旱害を除こう」とおっしゃった。
       とあり、海津見神の祭祀の起源とされています。

       豊玉毘古命は、日本書紀では、海津見神の別名として挙げられ、
       また、一説には、海津見神の娘・豊玉媛の婿・火火出見命(山
       幸彦)のことである、とも言われます。

       また、天命開別命は、天智天皇。
       大友太子命は、天智天皇と、伊賀采女宅子媛命の息子。天皇に
       即位されたという記録は、日本書紀にはないのですが、明治時
       代に、「弘文天皇」という称号を贈られました。
  住  所:滋賀県大津市西の庄15番16号
  電話番号:077−524−8696
  ひとこと:現在の地にこの神社が遷されたのは、持統天皇の御世、朱鳥元
       年のことだそうです。
       持統天皇は、悲しい女帝です。
       父・天智天皇と、その息子・大友皇子。そして、夫・天武天皇
       は、壬申の乱で争い、夫が勝ち、父は病死し、弟は、自害して
       しまうんです。

       この神社に、天智天皇・大友皇子・宅子媛が祀られたのは、他
       でもない、持統天皇の御世・元年です。

       栞では、壬申の乱以降、近江朝の神霊(天智天皇縁の神)を、
       弔祭できるのは、滋賀寺のみとされていたところを、滋賀寺の
       僧侶・尊良法師が、現在の地に三神霊を密かに、奉祭申し上げ
       た、となっていますが、本当に、密かに、だったのでしょうか?

       よく言われる、親は自分が選んだわけではないけれど、夫は自
       分が選んだ人だから・・・父と夫が相争うことがあれば、夫に
       つく・・・なんてのは、現代の人間の考えです。

       持統天皇の時代、しかも、天皇の娘が、夫を選べるわけなんか
       ありゃしません。

       天武天皇は、額田大王に詠んだ歌、
      「紫草の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆゑに 
       われ恋ひめやも」
       が有名ですが、妻・持統天皇に対しての歌は、知られてない、
      (もしかしたら、まったく、ない、かも)んですよね。

       大体、天智天皇と天武天皇って、額田大王を取り合ったりして、
       仲の良かったという話は、聞きません。

       仲の悪い弟に、娘を嫁がせる父親の意図はなんでしょうね?
       しかも、娘はあ〜〜んまり大事にされてないようなのに、戦争
       になると、娘は弟に味方しちゃう。

       持統天皇の考えは、どこにあったんでしょう?

       夫についた振りをして、父親の血を受けた自分が即位する?
       とかね。

      「肉を切らせて骨を断つ」って奴です。

       実際のところ、昔のこと過ぎて、何もはっきりは言えません。
       ただ、ひとつだけ言えることは、持統天皇は、天智天皇の血筋
      (つまり、自分の血筋だけど)を、天皇家の血筋として、守った
       ということでしょう。

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