kenkou

都留彌神社

tsurumi




  祭  神:速秋津日子神 速秋津比売神 推古天皇 菅原道眞 
  説  明:栞を転記します。
      「御鎮座
       布施の氏神、都留彌神社は布施の町の中央部、荒川の森に有り御祭神は縁を結び
       給ふと倶に家業を御守護なり、当神社の創祀は頗る古く、今より千百年前仁和二
       年第五十八代光孝天皇の御代の國史所載の由緒深き式内の神社です。
       由緒
       第六十代醍醐天皇の延喜十庚午年は春の中旬より夏至にかけて聊かも降雨なく、
       河水細り井水涸れて毎日赫灼たる旱天続きにて田植すること叶はず、天皇はこの
       ことを聞し召され深く愍み給ひ河内國に十二社を撰定し、勅使を遺はされて五月
       二十三日より雨乞の御祈願をなされた御祈り空しからず神応ありて、同月二十五
       日に至ると大雨降り来て甘水田畑にうるをし喜びの声國々に満ちた、その後続い
       て順雨あり連年豊作が相続いたと云う。天皇もこの奇蹟に御感ありて親しく御拝
       あらせられ、此時に都留彌神社の社号を賜はり従五位上を贈られた。」
  住  所:大阪府東大阪市荒川3丁目90番地
  電話番号:06−6721−0664
  ひとこと:御祭神のうち、最初の二柱は、速秋津日子神・速秋津比売神、海峡の神様ですね。

       雨乞いと海峡、確かに無関係ではないと思うのですが、気になるのは、
      「河内國に十二社」のうち、他の十一社です。

       つまり、他の神社のご祭神にも、ある共通の名前が挙がっていないか・・・。

       菅原道眞は、大宰府左遷の後憤死、大いなる祟り神となり、仇・藤原時平一族を
       滅ぼした、とされています。

       死因は、様々ですが、落雷による感電死、狂死など、どれも禍々しさを拭えない
       死に方です。

       そして、雷神として生まれ変わった菅公は、天皇の居所である、「清涼殿」にも
       怒りの火を降らせました。

       その時の清涼殿の主は・・・醍醐天皇だったのです。
       そして、その七日後、醍醐天皇は息をひきとりました。
       病死・・・なんですけどね。

       菅原道真といえば、その敵役(笑)として、藤原時平が有名です。
       いいとこのボンボンで、女にモテモテの時平が、どうしてもお勉強では、道真に
       勝てない。その上、上司である宇多天皇は道真と仲良し。
      「えぇい、悔しい」
       時平が悶々としている時、宇多天皇は、息子に譲位します。
       その息子こそ、醍醐天皇。

       醍醐天皇は、時平の画策に乗ったのか、それとも、道真が醍醐天皇を廃しようと
       したという噂を信じたのか、道真の左遷を決定。
       そのことを知って慌ててやってきた、父・宇多上皇の使者と会うこともせず、慌
       てるように、道真を大宰府に流します。

       そんな理由ですから、醍醐天皇は、時平に負けず劣らず、道真公に恨まれていた
       はずです。

       実際、醍醐天皇は、49歳という若さで亡くなってます。

       時平が変死した後、醍醐天皇は道真を右大臣としています。
       これは、早良親王の祟りを恐れた桓武天皇が、「崇道天皇」の名を贈ったことと
       似ています。

       荒ぶる魂に栄誉を与えることにより、怒りを鎮めようというわけですね。

       しかし、醍醐天皇の御世、疫病の流行・旱魃・変死は、絶えなかったようです。

       この神社に関係する、
      「赫灼たる旱天」
       は、道真公の祟りと無関係だったでしょうか?

       それはないでしょう。

       少なくとも、醍醐天皇は、無関係だとは思っていなかったのではないでしょうか。

       そんな目で、もう一度、二柱のご祭神・速秋津日子神・速秋津比売神を見てみま
       しょう。

       まず、気になるのは、大祓祝詞に、「速秋津日売神」が、「罪をがぶがぶ」飲み
       込んでしまう女神として登場することです。
       醍醐天皇は、どんな罪を、「がぶがぶ」と飲んで欲しかったのでしょうか?

       そして、もう一つ考えてしまうのは、道真公が、海に流されて太宰府へと赴いた
       ということです。

       道真公を乗せた船は、速秋津日子神・速秋津比売神の二神が押し流したのでしょ
       う。

       醍醐天皇は、道真公を押し流した神々を道真公と一緒に祀ることで、またこの度
       も、祟り主をどこかに流して欲しかったのかもしれません。

       そして、最後にこの社名。

      「都留彌神社」。
       この名に醍醐天皇はどんな思いを込めたのでしょう。

      「つるみ」という音にはどのような意味があるのでしょう。

      「鶴を見る」という意味?
       梅の花を愛した道真公が、鶴を愛でることはありそうです。

       でもまさか・・・。
      「わしは、時平と『つるん』で、御前を左遷したけども、首謀者は時平じゃよ」
       という意味の、「つるみ」とか・・・・・。

       そんなあほな、ねぇ(笑)?

home 神社のトップに戻ります back