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有間神社

arima




  祭  神:天御中主大神 大己貴大神 少彦名大神 事代主大神
  説  明:境内案内板を転載します。
      「本社は往昔より摂津国有馬郡一ノ宮と云われ、延喜式内官幣社として神祇官
       の御差遣を賜わり舒明孝徳両天皇の御幸を仰ぎ、八十三束の圭田を賜わる。
       以前は山口荘天王谷(現西宮市山口町名来)に鎮座されていましたが、霊亀
       年間(約千二百年前)現在地に遷座され、天正年間羽柴秀吉の三木城攻略の
       時、又元和八年と寛政元年の三度炎焼し、寛政八年再建されたのが現在の本
       殿であります。
       拝殿前『有馬社』の石標は、九代将軍徳川家重公が奉献され、又孝明天皇御
       即位の大嘗会の宮御用の黒木の鳥居の御下賜を受け現在石段上にあります。」

       ご由緒書を転載します。
      「当社は往古山口庄名来村(現在西宮市山口町名来)で創建され、舒明天皇、
       孝徳天皇が有馬温泉行幸の際、再三にわたって参拝される等、皇室とはゆ
       かりの深い式内社である。霊亀年間(西暦715年)に有馬川の洪水で流
       失し、御神託によって現在地に遷座された。古くは、摂津国有馬郡一の宮
       有間総社と称され、有馬郡16ケ町村の総氏神としてあがめられた由緒深
       い神社である。」
  住  所:兵庫県神戸市北区有野町有野4435
  電話番号:078−981−5349
  ひとこと:有馬といえば、温泉ですよね。
       ただ、有馬ではなく、「有間」と「温泉」というキーワードならば、皇子
       の名を思い出す人もおられるんではないでしょうか。

       有間皇子は、孝徳天皇の息子。
       つまり、皇位が継承される可能性も十分あった人物です。
       とすると、彼を邪魔だと思う人間も出てくるわけで・・・、それが、あの
       大化の改新の雄・中大兄皇子でありました。

       史実はわかりません。が、中大兄皇子が曽我赤兄を使い、有間皇子に謀反
       を唆します。
       そして、皇子がその気になるや、
      「皇子に謀反の疑い有り!」
       と、彼を処刑した・・・とされています。

       中大兄皇子が、「どんな理由で謀反を図ったのか」と問いただしたとき、
       有間皇子は、「天と赤兄が知っているでしょう。私は全く分かりません」
       と答えています。

       この皇子は、温泉に縁の深い人物です。
       彼は、白浜・牟婁の湯を大変気に入り、伯母である斉明天皇に湯治を進め
       ます。
       斉明天皇三年九月のことでした。
       日本書紀には、
      「有間皇子は性さとく狂者をよそおったところがあったと。云々。 

       彼が謀反のたくらみを企てたとされるのは、この時でありました。

       そして、彼は自分の無実を説明するために、天皇のいる白浜を訪れる途中、
       処刑されました。
       白浜にはまだ遠い、藤白の坂でのことでした。

       また、父である孝徳天皇は大化三年十月十一日に有馬温泉を訪れています。
       大化三年というと、西暦では647年。

       皇子が狂者のふりを装ったとされる、斉明三年は、西暦657年。

       日本書紀では、皇子が謀反を図ったのは、19歳となっています。
       謀反の相談をした皇子に、「ある人」が、
      「計画はそれとしても徳がありません。皇子は今十九歳です。成人されてか
       ら徳をつけるべきです」
       と諌めたという記述があるんです。

       皇子が謀反を図ったとされるのは、斉明四年ですから、西暦658年。

       とすると、計算が合わないのですが、とりあえず、有間皇子の名は、孝徳
       天皇が有馬温泉を訪れたときに授かったことによるという伝承があるよう
       です。

       なぜ、この皇子は、こんなに温泉とご縁が深いのでしょうね。

       さて、温泉とご縁が深い神といえば、なんといっても、この神社のご祭神
       でもある大己貴大神と少彦名大神でしょう。

       有馬温泉を発見したのはこの両神であるという伝承があります。
       湯治しているカラスを見て、温泉を発見したといいますから、本当の発見
       者はカラスですけどね(笑)

       その他、伊予国風土記逸文にはこうあります。
      「湯の郡。大穴持命は、見て後悔し恥じて、宿奈毘古奈命を活かしたいと思
       い、大分の速見の湯を下樋によって持って来て宿奈毘古奈命に浴びさせた
       ので、しばらくして生きかえって起きあがられて、いとものんびりと長大
       息して、『ほんのちょっと寝たわい』といって四股を踏んだが、その踏ん
       だ足跡のところは、今なお温泉の中の石に残っている」
       とあり、これが道後温泉の始まりであるとされています。

       大穴持命とは、大己貴大神のこと。
       宿奈毘古奈命は、少彦奈大神のこと。
       この二神は、ここでも温泉と深い関わりがあることがわかります。

       まったく関係がないかもしれませんが、古事記の中で、妹である衣通姫と
       の近親相姦の罪で、木梨軽皇子は、伊予の国の温泉に流されたとあります。
       そして、後を追ってきた衣通姫とともに、この地でおかくれになったと。

       島流しとは聞きますが・・・。
       なぜ、「温泉」なんでしょうか。

       確かに、もとは皇太子にまでなった、軽皇子を、流罪するにしても疎かに
       はできず、「温泉」へ流すことになったということだけかもしれませんが。

       ただ、
       葦原中国(日本)の国づくりに尽力したにも関わらず、天照大神たちに国
       を奪われ、冥界に閉じ込められた大己貴大神と彼とともに国造りをした少
       彦名大神。

       皇太子でありながら、妹との近親相姦という不名誉により降格、流罪とな
       った軽皇子。

       中大兄皇子に目の仇にされ、無実の罪で殺された有間皇子。

       すべて、「本来であれば、王であったが、罪(冤罪?)を得て死んだ神々・
       高貴の人々ではありませんか。

      「温泉」には、ただならぬものを感じるのですが、いかがでしょう。       

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