kenkou

石神社

ishi

ishi

参道




  祭  神:須佐之男命
  説  明:案内板から引用します。
      「この社号の石も地名だろう。ところが、明らかでない。広く言うことには、今、小岐須村の十四、五丁(約1.5~1.6km)
       北の山麓にある巌名は、高さ百丈(約300m)余り、広さ十丈(約30m)余りで険阻である。社はない。この地を
       石神社と記されたため、考証・再考の後に続く諸々の書は、すべて同調して異論がない。『勢陽五鈴遺響』に言
       うは、押位十八丁(約1.5m)祓川の水源山の中腹にある。すなわち野登山の北面にして東西五十間(約91m)高
       さ二百間(364m)ばかりの巨巌にして白色なり。ある人が言うには、東西六十三間(約115m)高さ二百五十間(455m)
       と言う。ところが、測り知りがたい。南北は、獄にそびえ混じって、突然である。神社なし。この岩を指して傍
       若無人に石大明神という。上古は傍らに神社があり、歳月遷り変わって廃絶し、その神殿も無くなり、後世も再
       建されず、岩石を拝むというものだと詳細に記してあるが、その石大神の巨岩がその本社であるべき確信を見る
       ことがない。
       今の世でさえ人跡が絶えた深山幽遠の地に、大昔の宮跡が所在する例がない。実に奇跡を好む。後学のこじつけ
       にして信じるべきでない。まして、従来は神殿がないことを本に、膨れ上がる出鱈目というものだ。
       また、亀山藩の上申書には、平の村の産神の社地に鎮座、八王子ともいう岩ケ谷というところがあるのを、後世
       に賀茂宮地中に遷し祭ったというけれど、近世の作為(近世に書かれた上申書)なので証拠はない。いいかげん
       を一節で信じられない。よって、以前に考えたのは、万葉集に『神風之 伊勢乃国者 国見者の毛 山見者 高
       貴之 河見者 左夜気久清之 水門成 海毛広之 見波 島名高之 己許乎志毛 間細美香母 桂巻毛 文尓恐
       山辺乃 五十師乃原 尓内日刺』《訓読み》『伊勢の国は 国見ればしも 山見れば 高く貴し 川見れば さ
       やけく清し 水門なす 海もゆたけし 見わたす 島も名高し ここをしも まぐはしみかも かけまくも あ
       やに畏き 山辺の 五十師の原に うちひさす 大宮荘へ』云々とある。
       さて、いしのはら(五十師の原)という名の由来は、今石薬師駅に石薬師と言う寺があって石の仏を祀っている。
       それは地上に自立し、大きな石の表に薬師と言う仏の形を彫りつけたもので、この石はあやしい石だ。これによ
       って思うことは、仏を彫りつけているのは、法師らの霊のしりばにて、後の事にて、もとは上代より、このあや
       しいいしがあることによって、石の原(五十師の原)とは、名前通りである。今もその辺りは広々として、かの
       山辺村の際まで同じ野が続き、該当するところがないという。その五十師の腹、すなわち石の腹にて、そこに本
       社があるがためmに石神社の地名から唱えているのだろう。しかし、その神社の所在地は、石薬師の墓地、これ
       であろう。神祠の拝殿に薬師を置くのは、例を挙げれば数えきれない。その本尊とする自然石の彫刻は、後世の
       手沢(長く使っている間に、手の脂がついて自然に出た艶)で、古色ではないが、別に堂内に崇秘ある小石に神
       像を彫らせたものがあり、旧古のものであるという。おそらくはこれが本社の神霊で、殿舎は仏堂に変わったけ
       れど、なおその霊形を現存しているのだろうと。以前に、推量して石薬師堂を検索したら、その石像は仏体で、
       神像ではないから、この考説の間違っていることを自ら納得して、よって、しりぞけて、ここに図らずして旧祠
       を認めることができた。
       風鳳鈔に昼生御厨六十六丁とあるのを昼生庄と唱え、上・中・下の三つに分かれている。その庄を三寺村という。
       その村の産神は、村の西の小山にあり、広大な社地で、樹木が鬱蒼として、墓地の岩を避け割ったようだ。実に
       長い年月の旧祠とみる。社の前の田を石が原といい東の谷を天神が谷、北の谷をいわの谷と字す。西は馬場の畠
       とならび、ここに古道があって、城内に入る社南の小山に嶮路を開き、鳥居を建てて扁額を掲げ、正一位昼生大
       明神と記す。文化年中(1804~1808年)のことということだ。
       ところが、村民老少男女女、ことごとくその社を昼生大明神の石の神社という。口々に伝えて変わらず。生識者
       のこじつけを受け式内社と誇る類でもない。大昔より受け継がれて社号を妄りに失わせないことは、深く感動し
       てしまう。踊り場に建ててある石棟にも『石神社拝所明治七年再建』と彫る。だから、社前に石が原の字があっ
       て、その石の地にある石の神社と称するに、これすなわち本社が現在まで建っているということを断定すべきだ。
       ただし、奄芸郡稲生社の三年に一度の大祭に獅子を出す。
       式内社内で比伊留大明神 比伊留、当社より四里半(約17.7km)と万治(1658~1661年)の縁起に注釈がある。
       その比伊というのは、この昼生谷の昼生大明神が訛って称するのだ。式内社の石の神社である一つの証とするも
       のである。
        ※この演技は、昔の古文書を亀山市歴史博物館の協力により現代文にしたものです」
       三重県神社庁の解説から由緒を転記します。
      「古来より石(いわ)神社とも称していた。『三国地志』によれば、当社は比々留明神祠と言い、比々留明神はひ
       びる谷つまり昼生七郷の総社として崇められていたとのことである。御巫清直の『神社検録』は、次のように記
       述している。「其村(三寺村)ノ産神村ノ西ナル小山二在、広大ノ社地ニシテ、樹木欝葱シ兆域ノ嵓鑿壁鑿セル
       カ如シ、實二千歳ノ旧祠ト見ユ、社前ノ田ヲ石カ原卜云ヒ、東ノ谷ヲ天神カ谷、北ノ谷ヲ岩ノ谷ト字ス、西ハ馬
       場ノ畠二列リ、ママニ古道アリテ域内二人ル、礼南ノ小山二嶮路ヲ開キ、鳥居ヲ建テ扁額ヲ掲ケ正一位晝生大明
       神ト記ス、文化年中ノ所作ナリトソ」一時期、昼生大明神と称したのは、いつの頃にか社号が不明になって行っ
       たかららしく、本来は、社参道の口に立っている「石神礼拝所」と書かれた石標の示す通り、石神社であるとし
       ている。(明治七年建立)当神社所蔵の獅子頭一ロは、古来三年に一回ずつ安知本から下の庄に至る道中を順に
       舞ってまわる慣例になっている」
  住  所:三重県亀山市三寺町590
  電話番号:
  ひとこと:ただざっと読んだだけでは頭に入らなくても、打ち込むうちに、大概のことは理解できるものです。
       
       が。
       
       この神社の御由緒書は、さっぱり理解できませんでした(笑)
       もう少し簡潔に書けないものだろうか(^^ゞ
       
       しかも昔の古文書って、具体的になんていう文書なんだろう(^^ゞ
       せめていつの時代の文書か書いてほしい。
       明治七年~と彫るってありますから、明治七年の文書でしょうか。
       
       この神社は山の中にあるのですが、鳥居をくぐると参道は一旦下りになり、谷まで降りるとまた登りになります。
       谷の箇所に何かあるのかと思ったのですが、観た限りではわからず。
       
       う~む……わからない(^^ゞ

home 神社のトップに戻ります back