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玉津島神社

tamatsushima




  祭  神:稚日女尊 息長足姫尊 衣通姫尊 明光浦靈 
  説  明:ご由緒書を転載します。
      「玉津島一帯は、また玉出島ともいわれ、いにしえ島山が恰も玉のように海中
       に点在していたと推察され、かの山部赤人の賛歌に、
      『神代より然ぞ貴き玉津島山』と詠まれた如く、風光明媚な神のおわすところ
       として崇められてきた。
       玉津島神社の創立は極めて古く社伝によれば
      『玉津島の神は、“神代”より鎮まり坐る』とある。
       稚日女尊は伊奘諾・伊奘冉二尊の御子であり、天照大御神の妹神に当たられ、
       後世またの御名を丹生都比売神と申し上げる。
       息長足姫命は即ち神功皇后である。皇后が海外に郡をおすすめになられた時、
       玉津島の神(稚日女尊)が非常な霊威をあらわせられたため、皇后これに報
       われ、御分霊を今の和歌山県伊都郡かつらぎ町天野の地にお鎮めもうしあげ、
       爾来、玉津島・天野に一神両所に並び立ち、毎年天野の祭礼に神輿がはるば
       る天野から玉津島に渡御する所謂『浜降りの神事』が応永の頃(1429年)
       まで行われた。
       玉津島の神を尊崇せられが皇后は、後に卯の年月にちなみ、御自身も合祀さ
       れることとなった。
       衣通姫尊は、第十九代允恭天皇の妃で絶世の美人であられ、その麗しさは名
       のとおり『衣を通して光り輝いた。』と伝えられ、また尊は殊のほか和歌に
       秀でられたことはよく知られるところである。
       衣通姫尊は、第五十八代光孝天皇の勅命により当社に合祀せられた。これは
       ある夜、天皇の御夢枕に尊が現れて、
      『立ちかえり またもこの世に跡垂れmう その名うれしき 和歌の浦波』
       とその一首を詠じられた故事によるもので、それにより玉津島の神は、住吉
       大神(摂津)・柿本大神(明石)とともに『和歌三神』の一つとして、朝廷
       はもとよりひろく一般からも崇められてきた。
       後世、後西・霊元・桜町・桃園・後桜町・後桃園・光格・仁孝天皇の御代に
       おいては、屡々、「法楽和歌会」と称し、玉津島の神に和歌を奉納する歌会
       が宮中で催された。
       これら同社に奉納された天皇御宸筆になる御製御短冊は、重要美術品として
       保存されている。
       神社背後の小高い岩山は奠供山(標高三十三米。奠・供ともおそなえの意)
       と呼ぶ。即ち、風光佳絶な玉津島の神はまた奈良・平安朝の聖武・称徳・桓
       武三帝にもこよなく愛でられ、屡々この地を訪われ滞在せられた。所謂『玉
       津島行幸』である。とくに聖武天皇はこの山に登られ、『山に登りて海を望
       むにこの間最も好し。遠行を労せずして以て遊覧するに足る。故に≪弱浜・
       わかのはま≫の名を改めて≪明光浦・あかのうら≫と為せ。宜しく守戸を置
       きて荒穢すせしめることなかれ。春秋二季官人を差し遣わし玉津島の神・明
       光浦霊(あかのうらみたま)を奠祭せよ』との勅命を発せられ、これにより
       当社に明光浦霊を合わせお祀りすることになったものである。」
  住  所:和歌山県和歌山市和歌浦中3−4−26
  電話番号:
  ひとこと:美女神揃い踏みという感じですね(#^.^#)

       しかし、ここで注目したいのは、神功皇后と稚日女尊の関係です。

       日本書紀では、皇后を三韓に誘い・先導をした神として、
       天照大神の荒御魂であると想像できる「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つき
       さかきいつのみたまさかるむかつひめのみこと)」。
       そして、事代主命のことであろうと思われる「天事代虚事代玉籤入彦厳之事
       代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろのか
       み)」。
       最後に住吉三神とも呼ばれる「表筒男・中筒男・底筒男」
       の名があがっています。

       古事記では、天照大神・住吉三神が先導の神とされています。

       が、
      「丹生都姫尊」もしくは「稚日女尊」については、記紀には何も記されていま
       せん。

       ただ、皇后が凱旋の後、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」は、廣田国に、
      「事代主命」は、長田区に、「表筒命・中筒命・底筒命」は、大津の渟名倉の
       長峡に。
       そして、なぜか往路では登場しなかった、稚日女尊が「私は活田長峡国に鎮
       座しましょう」とおっしゃっています。

       これはなぜでしょうか?

       いつの間に、稚日女尊は神功皇后の船に乗ったのでしょう?

       この玉津島神社の御由緒書によれば、神功皇后は殊の外、稚日女尊を尊崇せ
       せられた・・・としていますね。
       だから、すごく単純に考えれば、稚日女尊はご自分から先導を申し出られた
       のではなく、神功皇后が自ら願い出て、同行していただいた神である、と想
       像できます。

       ただ、その場合気になるのは優先順位とでも言いますか。

       結婚式なんかの席順を決めるのは、ごっつい神経を使う・・・ということは、
       ご存知でしょう。

       この場合、既に、天照大神・事代主命・住吉三神が「わしらに任せとけ!」
       とおっしゃってるというのに、それにまだ稚日女尊に援助を願うというのは、
       ある意味前者三方にとっては失礼なことではないでしょうか?

       稚日女尊が、この三方よりもずっと強力かつ高位の方でなければ、天照大神
       他二柱の神にとっては、神功皇后の態度はかなり心外にあたるはず。

       しかし、稚日女尊は、一般に天照大神の妹とされている神です。
       少なくとも、天照大神より高位ということは考えづらい・・・もし、天照大
       神の家系が「女系」であり、しかも「末子相続」の家事情でなければ。

       しかし、もしそうならば、「稚日女尊」というお名前は、何かちぐはぐな印
       象になってしまいます。
       もし、この妹神が天照大神より高位なのだとしたら、「稚」なんて文字使い
       ますか???

       もちろん、天照大神が可愛い妹に、「これから外国へ旅行するからさぁ、あ
       んたも一緒においでよ」と誘った・・・という可能性は、あります。

       ありますが・・・。
       戦争に行くんですよ・・・?

       さて、稚姫をお祀りした神社で有名なのは、まず生田神社があります。
       日本書紀でも、「稚日女尊は生田神社に鎮座された」と書かれています。
       が、日本書紀でそう書いてあるからこそ、「稚日女尊」を祀る「生田神社」
       は、生田・・・兵庫にあるのかもしれません。

       その他の稚日女尊を祀ることで有名な神社は、今ふと思いつくだけで、この
       玉津島神社と、そして、丹生都姫神社があります。
       両方とも、和歌山県に鎮座まします。

       わかひめがわかやまけん。

       わかひめは、本当に「稚日女」なのでしょうか?
      「和歌日女」なのでは?

       ・・・いや、反対に、わかやまが、「稚山」なのかもしれないけども。
       どっちにしても、「わかやま」と「わかひめ」のご縁は深いんじゃないか、
       と思うわけです。

       そして、その姫は、天照大神よりも、住吉三神よりも、事代主命よりも、ず
       っと力の強い神であった、とか。

       女性でありながら、海外まで戦に出かけ、そして、勝利したとされる女傑・
       神功皇后と、天照大神も一目置く女神。

       これならばお似合いではないかと思うのですけれども・・・ね。

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