kenkou

矢宮神社

yanomiya




  祭  神:賀茂建津之身命
  説  明:ご由緒書を転載します。
      「お祭りしている神様
       このお宮にお祭りしている神様のお名前は、賀茂建津之身命さまと申し上げ
       ます。またのお名前を八咫烏命さまと申します。
       それはどうしてかといいますと、日本の国のはじめのとき、第一代の神武天
       皇さまの軍隊が日本の国の中央である大和国(奈良県)へ、熊野の地からお
       進みになられましたが、道が険しくてどうすることもできなくなりました。
       そのとき、賀茂建津身命さまは、まるで大きな烏が飛ぶようにすばやく道案
       内をなされ、天皇さまの軍隊を無事に大和国まで導かれました。それでまた
       の名を八咫烏命さまと申し上げるのです。
       大昔には、日本だけでなく、中国や印度も、またヨーロッパのギリシャやス
       カンジナビア地方でも、烏は道案内にすぐれた鳥、広く世の中の事情に詳し
       い鳥として信仰されていました。八咫とはたいへん大きいという意味で、ま
       た極めて敏捷であるという意味もふくまれています。ですから、八咫烏命さ
       まとは、偉大な先導者であり、大切な情報を広く早く集める優れた神様であ
       ることを表したお名前なのです。
       また命さまは、途中で待ち構えている敵将には、手向かいせずに手下になる
       がよいとおさとしにもなられました。このように、賀茂建津之身命さまは、
       日本の国づくりに大手柄を立てられた神様なのです。
       矢宮の歴史
       このお宮をお祭りになったのはいつごろかと申しますと、第三十三代推古天
       皇さま(593〜628年)の御世に賀茂建津之身命さまの御子孫が大和国
       から移ってこられて、この地にお祭りしたのだそうです。またなぜ関戸の地
       をお選びになられたのかと申しますと、この地は神武天皇さまの軍隊が熊野
       へまわられる途中で、名草山にたてこもって手向かう名草戸畔をうち滅ぼさ
       れた時に陣がまえをしたのがこの関戸であるという言い伝えがあったからで
       す。
       この雑賀地方はずいぶん早くからひらけていたようで、弥生時代の末か古墳
       時代の初め頃と考えられる古代人の遺跡も見つかっていますし、万葉集の
        紀の国の雑賀の浦に出で見れば
         海人のともし灯浪の間ゆ見ゆ
       という歌からも知ることができます。
       国の政治がゆるみ世の中が乱れた中世でも、和歌吹上の大神として土地の人
       びとはいうまでもなく、四方の人々からも崇められて、雑賀荘の二十一もの
       村むらの大産土神として、境内も約5.4ヘクタールもあった大きなお宮で
       した。
       織田信長が勢いをふるっていたころ、紀伊国では紀ノ川の流域が最もひらけ
       ていて、上流は高野山、中流は根来寺、そして下流は雑賀衆の勢力がふるっ
       ていました。その雑賀衆はヨーロッパの豊かな農民のように富み栄えており、
       紀伊国の人口の四分の一もがこの地方に住んでおりました。
       ところが天下を統一しようとする織田信長は、天正五年(1577)二月に
       大軍を率いて雑賀荘へ攻めかかってきました。人々は驚き怖れて矢宮に一心
       にお祈りをしました。すると、『敵兵は三月三日の干潮をねらって雑賀川
      (和歌川)をおし渡り攻めて来るであろう。わたしは雑賀の人々のために海の
       潮を退かさないであろう。』というお告げがありました。果たしてその日は
       干潮の時刻だのに潮が満々としていて雑賀孫市を大将とした雑賀軍は敵軍を
       退け勝利をおさめることができたといわれています(雑賀合戦)。しかし、
       結局は朝日の昇る勢いの信長の大軍には勝てず、お宮は戦火によってすっか
       り焼け落ちてしまいました。
       けれども、人々はそれからも矢宮を雑賀荘のよりどころとしてますます信仰
       を深めてゆきました。
       徳川の世になって、初代紀州藩主徳川頼宜公は、寛永十四年(1637)に
       矢宮を立派にお建てになられました。それから明治の世になるまで、代々の
       紀州の殿様は紀伊国の大社として尊ばれ、社殿の増築や修理に、寄進や奉納
       に絶えることがありませんでした。これにならって雑賀の人々や紀伊国の人
       びとはいうまでもなく、和泉国、淡路国、阿波国、讃岐国からも、矢宮を崇
       める人々が大勢参拝に訪れました。
       矢宮はこのように立派な歴史をもったお宮なのです。」
  住  所:和歌山市関戸
  電話番号:073−444−0668
  ひとこと:まず、「干潮を起こさない」という御霊験が実際にあった、ということに目
       を惹かれてしまいます。

       干潮が起きないということがありえるのでしょうか?

       これについては、こたつ城主様が興味深いアイデアをくださいました。

      「鳴門の渦潮の関係ってことはないかな?」

       なるほど。
       もともと鳴門の渦潮のメカニズムというのも、潮の満ち干きと関係が深いよ
       うですし、可能性は十分ありそうです。

       実は、私がこの神社に参拝したのは、とてつもなくミーハーな理由からなん
       です。

       ・司馬遼太郎さんの「国盗り物語」を読む。
       ・大河ドラマで、信長公を高橋英樹さんが、道三を平幹二郎さんが演じたこ
        とを知る。
       ・図書館で「大河・国盗り総集編」を借りて見る。
       ・雑賀孫市という、八咫烏を旗印にした武将がいることを知る。
       ・司馬遼太郎さんの小説に「尻啖え孫市」という孫市主人公のものがあるこ
        とを知る。
       ・読む。
       ・図書館で、萬屋錦之助さん主演の「尻啖え」ビデオを見つける。
       ・見る。
       ・ハマる。

       とことん、ミーハー(笑)
       そんな理由で参拝したので、この神社のご霊験で孫市勝利となると、思わず
       頭が下がります。

       ・・・が、ちょっとだけ気になるのは、
       雑賀衆について、ちょろちょろっと読んだところでは、
      「一向宗徒の集まりで、極楽浄土を信じて喜んで死にに行く兵士だから、無敵
       だった」というような説明がされていることが多いように思います。

       一向宗徒が神に祈ることは、別に不思議には思いません。
       一向宗・・・浄土真宗に、「禁忌」のイメージはそれほどないんですよね。
       嘆異抄に、「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という一節があるの
       は有名でしょう。
       この言葉の意味は深遠で、私なんぞが偉そうに解釈するような話しじゃない
       のですが、つまり、現代的に言えば、
      「善人でも往生できるねんから、悪人が往生できんのは当然やん!」
       ということになりますね。

       は?善人が往生できるのは当然でしょ?
       なんでそれが悪人も往生できるってことの証拠になんの?

       まぁ、それが普通の反応と思います。
       ですから、これに対する解釈はいろいろあると思うのですが、私が
      「こうかなぁ?」
       と考えるのは、つまり、こういうことです。

      「仏の教えを守っていれば善人になれる。
       悪人になるには、自分でいろいろ考えていろいろ悩んでいろいろ苦しまなく
       てはいけない。だから、善人が往生できるならば、悪人はもちろん往生でき
       るんですよ」

       いや、私自身が、「悪人」なので、上記のように考えちゃうんですけどね。
       ただし、私は、この説が暗に言ってる、
      「善人の素晴らしさは、薄っぺらいけど、悪人の素晴らしさは、奥深いよ」
       って感覚には懐疑的です。

       善人の、一見薄っぺらい善良さは、神を知るという奥深さから来てるのかも
       知れない。
       悪人の、まず疑わずにいられないために、結果いろんなことを考えてしまう
       という、一見奥深さは、神を知らないという薄っぺらさから来てるのかもし
       れない。

       ・・・なんにせよ、ここでは、
      「だから誰でも往生できるんだよね?」
       と、安心しとくのが得策か、と(笑)

       つまり、浄土真宗のそういう教えを聞くと、
       神様への信仰を禁止するということはないだろう、と思うのです。

       では、何がひっかかるか?

       敵がやってこないことを祈るという感覚です。

       そもそも一向宗が怖れられたのは、「死を恐れなかったからだ」と、学校で
       一向一揆を習ったときにも教わったと思います。

       つまり、彼らは、現世での長生きよりも、極楽浄土での再生を夢見ているか
       ら、強かったというんですね。

       つまり、現世での暮らしは、そこそこ苦しかったのでしょう。
       もし、現世での暮らしが豊かならば、「あるかないかわからない」極楽浄土
       を夢見るよりも、現世での楽しみを堪能するでしょうから。

       ・・・こういう教え・・・
       つまり、現世を棄てて、極楽浄土や来世を夢見させるという教えは、
      「救い」になります。
       が、同時に、この教えを利用しようとする人間がいたとしたら、危険極まり
       ない思想になります。

      「教祖に帰依なさい。すべてのお金は寄付しなさい。現世では出世できないあ
       なたでも、極楽では、寄付したお金の額によっては、偉くなれますよ。」

       ですから、こういう教え自体は、素直に礼賛できないのですが、現に苦しい
       生活を強いられていて、それがどうしようもない時代にあっては、非常な励
       みになったろうな、と思います。

       ・・・そう、想像すると、雑賀衆が、敵の来襲を徒に恐れたというのが、何
       か、ピンときません。

       それは、のほほんとすごしている私の考えすぎかもしれませんが。

       つまり、結局、何が言いたいのかといいますとですね。
       この、「干潮がこなかった伝承」は、信長公側がでっちあげたんじゃないの?
       と言うことです。

      「あいつらがさ〜、神様に祈ったもんでさ〜、干潮がこなかったんだよ〜。だ
       から、攻められなかったの。あいつらが強くて、怖くて攻められなかったん
       じゃないのさっ!」

       ってね。

       考えすぎ(笑)??

       でも、それが、後世、孫市の地元でも受け入れられたというのは、やはり、
       魅力的な考え方だったんでしょうね。

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