renai

東高津宮

higashikoudsu




  祭  神:仁徳天皇 磐之姫命
  説  明:神社本庁発行の平成祭礼データには、
      「当宮の創建沿革等は、古文書が散逸せらるため現在では詳らか
       ではありませんが、大阪発祥の元を築かれ又弊衣破楼の上から
       炊煙の立つをご覧になり『朕富めり』と仰せられた歴代天皇中
       随一の御慈愛と御仁政を以て知られる、仁徳天皇を主神として
       奉斎したのは非常に古い時代のことで、往古より仁徳天皇社と
       号し平野社と称しました。
       俗に元高津と呼ばれ、堀河天皇時代(一〇九七年)の浪速古図
       に「仁徳天皇皇居大宮跡平野社」と記されています。此によれ
       ば、東高津村が、高津之宮跡ではないでしょうか。
       明治維新後、今の社名に改め、明治五年、村社に列せられ、大
       正二年十月、神饌幣帛料供進社に指定せられた。」
       とあります。
  住  所:大阪市天王寺区東高津町4−8
  電話番号:06−6761−2330
  ひとこと:仁徳天皇と磐之姫と言えば、ちょっとびみょ〜な夫婦です。

       だいたい仁徳天皇は、自分の国を眺めて、家から煙が上ってい
       ないのを見て、
      「私の国は十分に富んでいない。」
       と気付くような勘の良さがあり、それで、
      「租税労役を中止せよ」と命じられて、自分も貧しい家に住むよ
       うな控えめな性格の天皇であるとされています。

       が、女性遍歴はなかなかのもので、父の応神天皇の時代、父親
       が召そうとした「髪長比売」を恋して、父親から譲り受けたと
       いう情熱家でもあるんです。

       なんか、ロマンスの主役になりやすい性格でしょ?そうなんで
       すよ・・・。

       日本書紀の中の物語をざっと追ってみましょう。

       仁徳天皇の皇后は、磐之姫。後に履中天皇・反正天皇・允恭天
       皇となる皇子達を加えた4皇子に恵まれていました。

       が、事件は仁徳天皇が八田皇女を妃としたい、と考えたことか
       ら始まります。
       これも、天皇は、決して色恋沙汰で、こんなことを言い出した
       んじゃないんですよね。
       自分に皇位を譲るために自害した異母弟・菟道稚郎子の遺言な
       んです。つまり、八田皇女は、菟道稚郎子の同母妹なんです。

       しかし、皇后はぜ〜〜ったい許せません。
       天皇は、皇后に訴えるんですが、その訴え方が、
      「妃になれると思っている、あの子を失望させるのはかわいそう
       だと思わないかい?ねぇ、おまえ」
       なんていう情に訴えるやり方なんですね。ありがちです(^^ゞ

       でも、磐之姫が紀の国に出かけた留守中、天皇はこっそり八田
       皇女を召し入れます。
      「既製事実にしちゃえ!」
       というわけですね。

       しかし、皇后は旅先でこのことを知ります。
       んで、「もう帰らないもんね」と、山城に筒城宮を築き、その
       後、死ぬまで、天皇のところに戻ることはなかったのです。

       磐之姫が亡くなった後、天皇は、八田皇女を改めて皇后にして
       います。

       ただ、仁徳天皇と磐之姫の間の愛情が、それでは冷め切ってし
       まったのか、と言われると、そうではないのです。

       磐之姫は、怒って大和の国を越える途中、こんな歌を詠んでい
       ます。

      「つぎねふ やましろがわを かはのぼり わがのぼれば 
       かわくまに たちさかゆる ももたらず やさはのきは 
       おおきみろかも」
       これは、山城河を上ったところにある八十葉の木が立派だった
       ので、「大君みたいだ」と感嘆しているのですね。

       また、こんな歌も詠んでいます。
      「つぎねふ やましろがわを みやのぼり わがのぼれば 
       あらによし ならをすぎ をたて やまとをすぎ 
       わがみがほしくには かつらぎたかみや わぎへのあたり」
       私の見たいと思う国は、・・・我が家の辺りなんです。
       そういうことですね。

       これだけ、天皇のことを思っているのに、それでも磐之姫は帰
       りません。

       仁徳天皇だって、磐之姫をあっさり切り捨てたわけではないの
       です。
       皇后が紀の国から帰る日、天皇は自ら難波の津まで迎えにでて
       いるのです。
       そして、皇后が怒って帰ってこない、と知ると、何度も何度も
       迎えの使者を遣わすのです。

       古事記では、最終的に天皇が迎えにいって、和解したように描
       かれてはいますが、皇后が帰ってきたかどうかは、はっきり記
       していないようです。

      「男と女の間には、深くて暗い川がある」
       なんて申します。

       大体、力関係のはっきりしてる男女関係の場合、強い方がやり
       すぎちゃうんですね。
       弱い方を踏みにじるだけ踏みにじっちゃう傾向にあるようで。
       最後の一線に気づかないってパターン、多いんだ。いや、多い
       ように見受けられます。

       別れ話を持ち出されて、
      「なんで急に・・・」なんてきょとんとしちゃうのが、こういう
       男女関係の強い方だったりするんですね。
       弱い方は、耐えて耐えて、考えて考えて、考え抜いて出した結
       論なのにね。

       そんなわけだから、強い方は、「単なるきまぐれだろ」と、軽
       く構えてるんだけど、弱い方としては、考え抜いた結論だから、
       てこでも別れの意志を変えない。

       強い方は、「なんでなんだよ〜〜〜」

       どっかで見たことあるでしょ?このパターン(^^ゞ

       強いってのは、腕力じゃなくて、影響力のことですね。
       もっと簡単に、俗っぽく言えば、より多く惚れられてる方が強
       いと、まぁ、断じてもそんなに外れてはないでしょう。

       結局、普通にしていては、磐之姫は仁徳天皇に勝てないのです。

       そのことは、磐之姫もわかってたんでしょう。
       だから、最後の手段に出た。

      「帰ってきて欲しい」と言われながら、この世の人でなくなった、
       と。
       求められる立場の時に、手の届かないところに行ったわけです。

       このことによって(?)、自分の息子から三人も天皇がでたわ
       けで。

       最終的にこの勝負、磐之姫の勝ち・・・ですかねぇ?

       私はそんな風に勝ちたくはないけど・・・。まぁ、こういう手
       もアリ、と覚えておいて損はないでしょう??

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