renai

神威神社

kamui




  祭  神:大綿津見神 志那戸神
  説  明:平成祭礼データによりますと、
      「伝えて曰く往古文治年間源廷尉義経公蝦夷地へ落ち忍び来りし時、
       今の神岬町神威岬に差懸るや風浪激しく舟為に進む能はず、依って
       義経公遥か沖合に屹立せる衣冠姿なる神威岩に大綿津見神、志那戸
       神を勧請奉斎し、公開の無難を祈願し通過し得たりと云う。(この
       伝説に附随して女人禁制となり情緒深き追分節生じたるなり)従っ
       て神霊の奇しきを尊崇して夷民「カムイ」と信仰し来る。後松前藩
       地頭藤倉近兵衛が志屋古丹、於賀武意明神として神岬町に創立した
       と伝えられ、寛文3年地元民が社殿を再建した。文化2年松前正神
       司白鳥遠江守祭主となる。慶應2年来岸町に移し神威明神と尊稱し
       て積丹郡中の守護神と奉拝する。明治3年更に現在地に移し社殿を
       造営、明治8年郷社に列せられ大綿津見神社と改稱。昭和6年本殿
       を全部青森産桧材を以て改築、社号を神威神社と改稱す。昭和21
       年宗教法人設立。」
       とあります。
  住  所:北海後志支庁道積丹郡積丹町来岸町
  電話番号:
  ひとこと:この神社の「義経伝説」を裏付けるように、この神社を西へ約3キ
       ロほど行ったところにある、「神威岬」には、「チャレンカ伝説」
       があります。

       積丹観光協会のパンフレットのから引用しますと、
      「日高の平取へ辿り着いた義経一行は首長の家へ身を寄せた。
       その義経を強く思う首長の娘チャレンカ。
       北へ向かって旅立った義経を追い、何十里も越えやっと辿り着いた
       のが神威岬である。
       しかし時すでに遅く義経は、北へ向かい船出した後だった。
       チャレンカは大声で叫ぶが、折からの強風にかき消され、義経の船
       へは届かなかった。その時チャレンカは恨みの言葉『和人の船、婦
       女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん』を残し、海へ身を投
       じてしまった。
       その姿はやがて岩と化し、それが神威岩である。
       以来、女性を乗せた船が通ると必ず転覆した為、神威岬の海はかつ
       て、女人禁制の地となった。」
       なんて伝説がありまして、岬への小道を「チャレンカの小道」と呼
       んだりします。

       ただですね。
       悲劇の美少女・チャレンカが化したと言われる、「神威岩」なんで
       すが、ごっつい、いかり肩です。
       和田アキ子も真っ青(^^ゞ

       北海道の神社を眺めてみると、義経伝説がところどころに残ってい
       ます。まぁ、ほとんどが、義経に捨てられた女性の伝説ですが(^^ゞ

       義経は平泉で殺されたのではなく、生き延びてモンゴルへ渡り、ジ
       ンギスカンになったという伝説があるのをご存知でしょうか?

       つまり、北海道に義経伝説があれば、モンゴルへ渡ったうんぬんの
       説に信憑性が加わるのです。

       ただ、ほとんどの伝説は、アイヌの英雄譚を義経にこじつつけただ
       けらしいですけれどね。

       つまり、本州人たちの判官贔屓に、北海道の人たちがおもねって作
       られたのが、北海道での義経伝説なようです。

       さて、義経公が勧請した、と言う、大綿津見神 志那戸神です。
       大綿津見神は、海の神様。志那戸神は、風の神様。
       安全な船旅の為にはぜひともご加護の欲しい神様です。

       北海道の先住民・アイヌの人たちは、神社など形のある祠を造って
       神様を祀る習慣はなかったのだそうです。

       でも、祠はなくても、「神威=カムイ」の岬に、海の旅を加護する、
       海の神と風の神が祀られていた可能性は十分あると思います。
       その神様のお名前はわかりません。

       が、式内社ではなくとも、祭祀は十分古い、と言えるのじゃないか、
       と思います。

home 神社のトップに戻ります back