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一宮神社

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  祭  神:田心姫命
  説  明:栞によりますと、
      「当社の創建年代は不詳であるが、一説には推定四世紀ともいわ
       れている。
       当社のご祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換して誓約
       の際にお生まれになった三女神の一柱で、福岡県宗像郡沖の島
       に鎮座の宗像大社より勧請されたといわれ、大国主命の后とし
       て、御一緒に日本国土開発と経営に協力された。
       又神功皇后が三韓からの帰途、神験特に著しかったので、巡拝
       された一社で、爾来、生成発展・交通安全・厄除け・縁結びの
       守護神として御神徳の高い神様で、旧八部郡北野村鎮守として
       奉斎されている。
       生田神社の裔神八社のうちの一宮であり、元禄三年(西暦16
       90年)の書に『市の宮』と記載され、神社を中心として一定
       の日に市の立つところであったといわれている。
       末社に伊久波神社(伊久波戸田宿祢命)が祀られている。社殿
       はすっきりした春日造りで、奈良県添上郡大柳生村山口神社の
       境内社戸隠神社を模して昭和二十二年再建されたものである。
       又、熊高稲荷神社が祀られ、古くから商売繁盛等霊験あらたか
       として信仰されている。」
       とあります。
  住  所:兵庫県神戸市中央区山本通1−3−5
  電話番号:078−221−1281
  ひとこと:神戸北野は異人館通りにほど近い神社です。
       大人しくてかわいいわんちゃんが出迎えてくれました。

       神戸が栄えたのは、明治以降なのだそうです。
       幕末に勝海舟が幕府の海軍習練所を作ったあたりから、人がた
       くさん入ってきたのだそうで、それ以前は、平清盛の福原遷都
      (西暦1180年)に遡るまで、どちらかというと寂れた村だっ
       たようです。

       平清盛が福原へ遷都して、安定させていたら、現代の神戸、い
       や日本は全然違うものだったかも知れません。

       日本の首都の移り変わりを分る限りですが、見てみましょう。
       一応、人皇初代の神武から。

       畝傍橿原宮(神武)→葛城高丘宮(綏靖)→片塩浮穴宮(安寧)→
       軽曲峡宮(懿徳)→掖上池心宮(孝昭)→掖上池心宮(孝昭)→
       室秋津島宮(孝安)→黒田廬戸宮(孝霊)→軽境原宮(孝元)→
       春日卒川宮(開化)→磯城瑞籬宮(崇神)→纏向珠城宮(垂仁)→
       纏向日代宮(景行)→泳宮→近江志賀高穴穂宮(成務)→穴門
       豊浦宮(仲哀)→大和磐余若桜宮(神功)

       さて、ここからは、実在がかなり有力になってきます。

       大和軽島豊明宮(応神)→難波高津宮(仁徳)→大和磐余稚桜
       宮(履中)→河内丹比柴籬宮(反正)→遠飛鳥宮(允恭)→河
       内茅渟宮→石上穴穂宮(安康)→泊瀬朝倉宮(雄略)→大和磐
       余甕栗宮(清寧)→大和葛城角刺宮→近飛鳥八釣宮(顕崇)→
       石上広高宮(仁賢)→泊瀬列城宮(武烈)→河内楠葉宮(継体)→
       山城筒城宮→山城弟国宮→大和磐余玉穂宮→大和勾金橋宮(安
       閑)→大和檜隈慮入野宮(宣化)→大和磯城島金刺宮(欽明)→
       百済大井宮(敏達)→大和譯語田幸玉宮→磐余池辺雙槻宮(用
       明)→大和倉梯柴垣宮(崇峻)→飛鳥豊浦宮(推古)→小墾田
       宮→飛鳥岡本宮(舒明)飛鳥田中宮→百済宮→小墾田宮(皇極)→
       飛鳥板葺宮→川原宮→難波長柄豊崎宮(孝徳)→長柄豊崎宮→
       飛鳥板蓋宮(斎明)→飛鳥川原宮→飛鳥後岡本宮→両槻宮→吉
       野宮→筑前磐瀬行宮(天智)→滋賀大津宮→飛鳥浄御原宮(天
       武)→難波宮(持統)大和藤井原藤原宮。
    
       ここまで代々天皇が即位するごとに都は遷っています。
       が、次の、文武天皇の即位期間は10年と、短かったこともあ
       るでしょうが遷都はありません。
       次の天皇、文武の母・元明天皇の時に、平城京に遷都されたの
       は、皆さんご存知でしょう。
       なんと(710年)立派な平城京。
       それからは、なんと7代もが同じ都で政務を行ったのです。
       その次からはご存知でしょうが、桓武天皇の山城長岡宮・山城
       葛野平安京への遷都。
       その後、なんと、この平清盛の福原遷都まで、遷都は行われな
       かったのだそうです。

       これは、今までの歴史を見るに、異常なことだといわねばなり
       ませんね。

       藤原京から平城京に遷都した理由はなんでしょうか?
       いろいろ理由はあるでしょうが、まずは、交通の便がよいこと。
       治水の面で優れていること、などの理由でしょう。
       事実、これ以降奈良時代と呼ばれる間、日本はどんどん盛えて
       行くのです。

       次の遷都は長岡京・平安京の遷都。
       これは、桓武天皇が、崇道天皇の怨霊を恐れた為に行われたと
       一般に言われています。
       土地として見た時、平城京と平安京では、平城京の方が、交通
       の便などに優れているのではないか、と思うのですが、平安京
       遷都以降、日本の政治は安定して行きます。
       まさに「平安」な時代へと突入するわけです。

       しかし、平清盛は福原に何故遷都しようとしたのでしょうか?
       結局は挫折するわけですが。
       それは勿論、海運の利を考えてものことでしょうが、何よりも
       遷都をすることによって、自分の地位を確かにしようとしたの
       ではないでしょうか。

       血筋的には、平家は、その時代の天皇家と親戚筋ではあるので
       すが、本家筋ではありません。

       ならば、天皇に成り代わろうとするなら、遷都するのが一番分
       り易く効果的ではないでしょうか?

       なんて、長々連ねてきて、結局何をいいたいかというと、つま
       り、だから、即位の度に遷都せねばならなかった、持統天皇以
       前の天皇達は、かなり無理やり即位したんちゃうのん?という
       ことなんですけどね。

       また、反対にそれ以降、血筋に添って即位していったという、
       持統天皇の腕力ってのは、徳川家康以上のもんちゃうのん?

       よ!!女丈夫!ってことなんですけどね。

       日本書紀を残す変わりに、幾多の面白かったろう神話を消し去
       った女帝の行為に対しては、かな〜り不満を持っていますが、
       自分の血筋をその後、長く残していく為に彼女がしたことは、
       強引だけれども、類を見ない、頭の良い行為だったのじゃない
       かと思うのです。

       いろんな面で、持統天皇は良く言われないことが多いのですが、
       そういう意味では、徳川家康なにほどのものぞ。
       徳川家康を誉めるなら、持統天皇もちょっとは誉めてあげよう
       ね。

       そんなことを思うのでした。

       なんて書くと、
      「あんたは誰の味方や?この蝙蝠!」
       なんて言われそうだなぁ(^^ゞ

       だって、どの人(神)も、その人の肩を持って見れば、いい所
       はあるんだもん・・・。

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