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三宮神社

kobesanmiya




  祭  神:湍津姫命
  説  明:八社巡拝の栞によりますと、
      「当社のご祭神は、天照大御神が素盞鳴尊と剣玉を交換して誓約
       の際にお生まれになった三女神の一柱で、福岡県宗像郡沖の島
       に鎮座の宗像大社より勧請されたといわれ、神功皇后の三韓か
       らの帰途、巡拝された一社であり、又寛延年間には尼崎藩主の
       信仰が篤かった。明治維新早々には、神戸開港の際、藩士と外
       人との突発事件が起こった地で、いわゆる『史跡・神戸事件発
       生地』であります。
       また二宮神社の御兄神と年に一度の御対面をされると伝えられ、
       古くからそれが神事となっている。
       爾来、航海交通安全・厄除けの守護神として御神徳の高い神様
       です。旧八部郡神戸村鎮守として奉斎。」
       とあります。
       また、三宮神社の栞には、
      「国際都市神戸の最も中心をなす繁華街に、港を前にひかえて鎮
       座ましまし、祭神として天照大御神の御子である女神湍津姫命
      (たきつひめのみこと)を祀り、交通の安全と商工業の繁栄を守
       り給う神として、又、知恵授けの神として古来より一般の崇敬
       厚い神社である。
       創始の年代は古くして極め難く古記録も欠けているが、神社に
       は享保十七年(西暦1732年)の銘のある石鳥居と手水鉢や
       寛延元年(西暦1748年)の銘のある石燈篭が存在している。
       この地は以前尼崎藩領であったため藩公が厚く進行せられ、右
       の寛延の石灯籠は尼崎藩主の奉納になったものと伝えている。
       五月吉日に行われる春祭の神幸四季は、昔は十三日早朝に本社
       を発して、氏子地域を巡幸し、諏訪山温泉前にて休憩後、御旅
       所である二宮神社に至り、生田神社へ鳳輦を薦め、ここで神前
       祭を執行、のち氏子地域を経て本社へ還幸されることになって
       いる。
       これは、生田神社では御母子、二宮神社では御兄妹が年に一度
       の御対面をなさるためであると伝えられて、古くからの神事と
       なっているのは珍しいことである。」
       とあります。
  住  所:兵庫県神戸市中央区三宮町2丁目4−4
  電話番号:078−331−2873
  ひとこと:ちょっと〜、奥さん、聞きましたあ? ヘ(・・;)
       湍津姫命は、天照大神の娘ですって〜〜。(;^_^A 
       しかも、生田神社の祭神の娘ですって〜〜。(゜.゜) 
       そのうえ、二宮神社の祭神の妹ですってよ!! (☆。☆)

       記紀によりますと、湍津姫命は、確かに、天照大神と素盞鳴尊
       が誓約の時に互いに生んだ神々の中の一柱です。
       が、三女神は素盞鳴尊の、五男神は天照大神の、御子である、
       と言うのが通説(というか記紀の説明)です。

       生田神社の祭神は、稚日女命、通常、天照大神(大日女命)の
       妹神とされる神様で、生田神社の説明によりますと、素盞鳴尊
       の乱暴により、錘で陰部に怪我をおい、亡くなってしまう神様
       となっています。

       二宮神社の祭神は、やはり誓約の時に生まれた男神・天忍穂耳
       尊です。

       そのことを考え合わせますと、
       天照大神の別名=稚日女命
       天照大神と素盞鳴尊は、互いに子を生んだのではなく、二人が
       結び付いて、8柱の神を生んだということになります。
       だって、天照大神と素盞鳴尊が互いに別々に、子供を設けたの
       ならば、湍津姫命と天忍穂耳命が妹兄という表現になりません
       ものね。

       錘で陰部をついて亡くなったという表現は、まさしく男女交合
       の場面を描いてるというわけでしょうか?

       んでもって、そのことによって、稚(わか)姫は、天照大神に
       進化したとか(^^ゞ?

      「少女が、大人の女になるのにどれだけ時間がかかるでしょうか?」
      「ひとつき(一月&一突きの意)!」
       というなぞなぞを思い出してしまったワタクシです。
       失礼しましたm(__)m

       そんなことを考えますと、この辺りの血のつながりなどを再考
       する必要がありそうですね。

       さて、神戸事件は、ちょっと重要な事件ですので、三宮神社の
       説明を少し紹介しましょう。

       神戸事件は当初、三宮神社の鳥居前で起きたため、三宮事件と
       呼ばれていました。

       ことは、朝廷が、尼崎警備の為、西宮へ備前藩を派遣したこと
       から始まります。
       明治元年1月11日午後1時ごろ、三宮神社前を通る、備前藩
       家老・日置刀帯忠尚率いる約五百の行列を、突然外人が横断し
       ようとしたのです。
       当時、大名行列が、まだ「下にぃ〜、下に」と言ってたかどう
       かはわかりませんが、とにかく無礼千万である、ということで、
       一人の藩士が、この外人に発砲したわけです。
       それがもとで、さぁ大変。この外人さんがどこの国の人だかは
       明示されてないのに、これに怒ったのは、米・英・仏・伊・和・
       晋の外国群。(和と晋って、オランダと、ポルトガル?)
       備前兵達ってば、自分達がことの発端の癖して逃げ帰ったので、
       神戸は外国軍に完全に占領されちゃいました。
       そして、4日後の1月15日、東久世通キを勅使とする一行が、
       明治天皇の宣言書を掲げて六カ国と神戸運上ところで会見。
       談判の結果、発砲責任者を各国士官立会いの面前で死刑に処す
       べしとの要求を受け、これを日本は黙然と、受け入れます。
       日本国政府は、よほど、黒船にびびってたんですね。

       責任をとって、兵庫永福寺で切腹したのは、備前藩士の滝善三
       郎。この人物が発砲したのか、発砲した侍の上司だったのか、
       描かれていませんが、この人物の切腹により、日本は植民地化
       を免れたというのですから、大したもんです。
       外国政府は、よほど、「ハラキ〜リ」にびっくらこいたんでし
       ょうね。

       今では、神戸三宮と言えば、異人館の入り口、こ洒落た街です
       が、明治の頃は、刺激を与えたら爆発しかねない、緊張した街
       だったんですねぇ。

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