renai

敏馬神社

minume




  祭  神:素盞烏命 天照皇大神 熊野坐神
  説  明:御由緒書を転記します。
      「当社の旧記は、慶長年間(1600年ころ)兵火にかかり焼失して伝わらな
       いが、諸文献によって考察することができる。奈良時代の摂津風土記(71
       3年)に『美奴売(みぬめ)とは神の名で、神功皇后が新羅へご出発の時、
       神前(かんざき)松原(豊中)で神集いをされた処、能勢の美奴売山(大阪
       府豊能郡三草山)の神様がこられ、わが山にある杉の木をきり船を造りて新
       羅へ行かれるなら、幸いする所ありと数えられた。その通りなされると、大
       成功をおさめた。お還りの時、この地で船が動かなくなったので、占い問う
       と神の御心なりと。故に美奴売の神様をこの地に祀り、船も献上した』とあ
       る。これ当社の縁起にして、神功皇后摂政元年(201)の御創建となる。
       また平安時代の延喜式(927年)の神名式に生田・長田神社と並びみ(さ
       んずいに文)売神社が記載されている。延喜式に記載される神社を式内社と
       いい、最も古い由緒を誇る格式のある神社である。
       敏馬雑話
      『みぬめ』はご祭神の弥都波能売神の名より転じたもので、昔は美奴売・美奴
       面・み(さんずいに文)売・見宿女・三犬女とも書いていた。しかし貞享三
      (1686)年の文書に敏馬三社として、ご祭神が素盞鳴命を中心に三柱にな
       っている。
       素盞鳴命が『牛頭天王・祇園』とよばれ、諸々の邪悪と災厄をのぞくという
       ご神徳のため、中世より信仰が盛んになり、特に江戸時代に隆盛をきわめた
       ので、その頃ご祭神が変ったのだろうか。
       当社の東側にある竜泉寺は、神宮寺として当社と深いつながりをもつ寺院で、
       ご本尊は薬師如来(ご祭神素盞鳴命と関係ありという説あり)。
       明治六年に神社に社格ができ、当神社も村社・郷社・県社と次々昇格した。
       社殿も寛政二(1790)年の建立のものであったが、昭和二十年六月五日
       戦災により焼失した。しかし昭和二十七年より復興に努め、昭和三十六年ま
       でに本拝殿・稲荷社・宝庫などの再建を完了した。
  住  所:兵庫県神戸市灘区岩屋中町4−1−8
  電話番号:078−861−2091
  ひとこと:美奴売の神が、「弥都波能売神」から転じたもの、と、ご由緒には記されて
       ますね。

       とすると、ちょっと面白いのです。

       古事記にも、神功皇后新羅出発の時のことが記されてあります。
       ちょっと抜き出してみましょう。

      「ここに皇后に神懸りして神様が教えなさいましたことは
      『西の方に国があります。金銀をはじめ目の輝くたくさんの宝物がその国にあ
       るが、わたしが今その国をお授け申そうと』仰せられました。(中略)
       そこで更にお願い申し上げたことには、
      『今かようにお教えになる神様は何という神様ですか』と申しましたところ、
       お答え遊ばされるには『これは天照大神の御心だ。また底筒の男・中筒の男・
       上筒の男の三神だ。今まことにあの国を求めようと思われるなら、天地の神
       たち、また山の神、海河の紙たちにことごとく幣帛を奉り、わたしの御魂を
       御船の上にお祭り申し上げ、木の灰を瓢にいれ、また箸と皿とをたくさん作
       って、ことごとく大海に散らし浮かべてお渡りなさるがよい』と仰せなさい
       ました。
       そこでことごとく神の教えたとおりにして軍隊を整え、多くの船を並べて海
       をお渡りになりました時に、海中の魚どもは大小となくすべて出て、御船を
       背負って渡りました。順風が盛んに吹いて御船は波のまにまに行きました。
       その御船の波が新羅の国に押し上がって国の半にまで至りました。」

       日本書紀では、神の名は、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」となってます。
      「つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと」とお読みするよう
       ですが、漢字でも、ひらがなでも、覚えられませんね(^^ゞ

       まぁ、それはよいとして、この神は、伊勢の国の度会の県の五十鈴の宮にお
       いでになる、とされてます。
       天照大神のこと、と断言するわけには行きませんが、「五十鈴の宮」におい
       でになる神・・・といえば、まぁ、天照大神のことだと思われますし、神功
       皇后が帰還された時、天照大神が、「わが御魂を皇后の側に置くのはよくな
       い、広田国に置くがよい」と教えたという記事が見えますから、前後のつな
       がりを考えると、天照大神と考えて、そうそう問題はなさそうに思います。

       しかし、ここに、摂津国風土記逸文だけは、
      「神功皇后を助けたのは、天照大神じゃなく、美奴売神」
       と高らかに主張してるわけですね。

       この神は、美奴売山におられた、ということですが、美奴売山は、現在の、
       三草山だ、とされてますね。

       地図で見ると、能勢町と猪名川町の境。
       大阪府と兵庫県の境と言ってもいいですね。
       標高564.1Mとありますから、「高い山」というほどではありません。

       しかし、その山の神が、天照大神と対面をはるというわけです。

       さて、現在、三草山の頂上には神社があるようです。
       ただし、社町観光協会さんのサイトによると、この神社は、京都北の天満
       宮から勧請したとのこと。

       残念ながら、往古この山に住んでおられた美奴売神ではないようです。

       ただ、敏馬神社のご由緒を読むと、美奴売神とは、弥都波能売神の名より
       転じたものとされています。

       水の神様ですね。
       
       水の神が、はるばる海を渡って行こうとする皇后に船を与え、戦勝を約束
       するというのは、何か不思議な気にさせられますね。

       水の神様といえば、「祈雨」の時に活躍されることが多いのではないでし
       ょうか。どちらかというと、戦というよりも農業神のイメージですよね。

       しかし、摂津国風土記逸文は、「戦勝(とははっきり書いてませんが)を
       約束した」と。

       ここで視点をずらしましょう。
      「水の神様が、(大国相手の)戦勝を約束した」
       ではなく、
      「(新羅相手の)戦勝を約束したのが、能勢にある三草山の水の神様」
       と見てみましょう。

       とすると、三草山の神には、新羅よりも強い神であった。
       そして、その神は水の霊験が豊かであった。

       と言えるでしょう。

       しかし、この三草山は、海からは、かなり遠い場所です。
       しかも、標高は、それほど高くない。山頂から海は臨めたでしょうが、海
       を間近に感じられるというほどではないでしょう。

       ここに、新羅に対して強い態度で挑める人々が住んでいたという想像は、
       もちろんできるないわけじゃないのですが、何か苦しい。

       ならばなぜ?なぜ???

       この付近には、小山がたくさんあるので、その山名をちょっと目につくま
       ま上げてみましょう。

       妙見山、竜王山、竜宮山・・・。

       何か「竜王」と関係の深い名前が並ぶんですね。

       この山々の名前は往古からこの名だったとは思いませんが、この地が、竜
       王と深く関連づけられた地域である可能性はありそうです。
       水の神は龍神として表されることがよくありますから、三草山の水の神が、
       その「竜王」や「竜宮の王」である可能性も十分あるでしょう。

       そして、もう一つ言えば、その竜王の力はとてもとてもとても強大であっ
       た・・・ということなんですね。

       この山々、そしてこの敏馬神社の神とは、一体どんな力の持ち主だったの
       でしょうね・・・。       

home 神社のトップに戻ります back