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水天宮

suitengu




  祭  神:水波能女神 保食神 伊邪那岐神 伊邪那美神
  説  明:ご由緒の説明では、
      「安政六年創立
       水波能女神:水を主催する神様であります。
       保食神:食物を御守り下さる神様です。文政十一年堺町に創立せ
       られ、稲荷神社と称せしが、明治三十三年四月十日合祀せられま
       した。
       伊邪那岐神・伊邪那美神:国をおひらきになった神様で、俗に、
       寿命の神様とも称せられて居ります。
       此神様は、大正八年三月十日滋賀県犬上郡多賀村官幣大社多賀神
       社の御分霊を増祀せられたのであります。」
       ということです。
  住  所:北海道小樽市水天宮山鎮座
  電話番号:
  ひとこと:安政六年というと、西暦1858年。
       江戸時代の後期ですね。
       北海道の人たちは、祠を作って神様をお祀りする習慣を持ってお
       られなかったということで、古い神社はあまりないんです。

       この神社は、「水天宮」というお名前からも、水波能女神という
       ご祭神からも、お水の恵みを期待して創建されたのでしょう。

       小樽は日本のヴェニスと言われる街ですもん。
       お水は大切なんでしょうね。

       さて、北海道は祠を作って祀る習慣がなかった、と書きました。
       でも、神様がいらっしゃらなかったわけではありません。
       アイヌ神話をいくつか見てみましょう。

       アイヌの神様と言えば、まず思い浮かべるのは、「コロボックル」
       ではありませんか?

       蕗の葉の下の人という意味だそうで、佐藤さとる氏の童話で、フ
       ァンになった方も多いかも知れません。
       実は、旦那もそうなんですけどね。たはは。

       アイヌ神話を見ていると、登場人(神)物は、多彩です。
       例えば、このサイトを御覧ください。

       夢の中で翁神と媼神に会い、命令を守ることによって、人間の生
       活がスムーズに行くようになった、などという話があり、アイヌ
       の人々が、神様に守られている、と感じて生活していたことが、
       伺われます。

       また、村人が神様にいたずらされた話、怒られた話、などが見え
       ます。

       所謂「日本神話」の神様と同じように、人間味のある神々の話。
       でも、何か、日本神話と肌触りが違う。なんだろう?

       そうなんです。
       アイヌの神々は、どんな人間にでも、同じようにちょっかいを出
       してこられるのです。

       日本神話の神々のように、天皇にだけすべての責任を押し付ける
       ことはないようなのです。

       日本の神様は、天皇の行いが悪いと、国民全体に疫病を流行らせ
       たりします。

      「国民」とひとくくりにされた人々のそれぞれの顔は見えません。

       しかし、アイヌの神々は、そうではありません。
       神様に出会った人間、個人が悪ければ、その個人を攻撃し、個人
       が良ければ、その個人に祝福を与えるようです。

       それどころか、こんな話があります。
       ある神様が、神様の代表として人間界に来た時、アイヌの子供が、
       神様の持っている鯨肉を分けて欲しいと頼んだ。
       神様は、ケチケチして、無視して立ち去った。
       すると、子供は、
      「どこに行っても水をかぶる目にあって(北海道で水をかぶるとい
       うのは、かなりキツいことでしょうね)、最終的に地面にひっか
       かって、野垂れ死にするぞ」と呪いの言葉を吐くんです。
       かくして、神様は呪いの言葉通りになってしまい、「ケチケチす
       るもんじゃないや」と後悔する、と。
       この話にはオチがあって、この子供は、ただの子供じゃなく、国
       造りの神の子供だった、というんですが、つまり、人間の子供と
       神様の子供の見分けが通常つかないのだ、ということがわかりま
       すね。
 
       なぜでしょうね?
      「自然」を神様であると考えれば、人間が悪いことをしなくても、
       台風は来るし、人間が悪いことをしていても恵みの雨が降る。

       神様には神様の秩序があってこの世を支配している、と、考えな
       ければ理屈に合わないではありませんか。

       一神教の神様であれば、災害は、神の怒りである、原因は人間の
       悪事にある、とこじつけなくてはなりませんが、神様が神様の社
       会を独自に持っていると考える、凡神教ならば、そんな理屈はい
       りません。

       たくさんの人間を纏め上げるには、一神教の教えは有効ですが、
       小さな集落で平和に暮らしている人たちには、理屈っぽい神様は
       必要ではなかったのかも。

       この北の大地、北海道で、私は懐の広い神様の存在を、深く感じ
       たんでした。

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