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安井金毘羅宮

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  祭  神:崇徳天皇 大物主神 源頼政
  説  明:ご由緒を参照します。
      「保元の乱後、崇徳帝の車駕が讃岐のくにへ遷りまして後も、阿波内侍は、なお、こ
       の地に在って、日夜、追慕空しく海南の天を仰いで悲哀にくれ給う有様でありまし
       たのを、風の便りにお聞き遊ばされた崇徳帝はあわれと思召し、束帯の御尊影に、
       随臣・源為義、同為朝の像を御自ら描き給うて、これを内侍に賜わりました。
       崇徳帝が崩御遊ばされましてより、哀悼の余り、遂に落飾し給うた内侍は、この御
       宸翰を、寺中の観音堂に奉斎して勤仕されたのでありました。
       治承元年(1177)、後白河法王の御代に、大円法師が御堂に参篭したところ、
       崇徳帝が御尊躰を現し給い、往時の盛況を示し給うたのに恐懼した大円法師は、直
       ちに奏上して後白河法王の詔を蒙り、崇徳帝を奉斎すべく、その神殿を創建して其
       処に御自筆になる御尊影を鎮め奉りました。
       その後、第九十代・亀山天皇の御代に至って、天皇は更に神殿を改修し給い、以仁
       王の御子・道尊宮を蓮華法院門跡、当宮別当となし給い、これより八世の間、法嗣
       は綿々として継承されたのでありますが、応仁の乱後、院は荘園を散失し、堂塔社
       殿また荒廃に委せて昔日の影なきに至ったのでありました。
       降って、第百八代・後水尾天皇の御勅願によって、二条関白康通公の猶子・性演大
       僧正をもって院を再興せしめられ、当宮の別当となし給い、元禄八年(1695)
       には、別当道恕が更に讃州象頭山金毘羅大権現の御分霊を御相殿に奉斎申し上げて
       からは、利生霊験殊に著しく、これより、いつとはなしに、世俗では、安井金比羅
       宮と称えまつるようになりました。時に、領地三百石を有して、社寺共に隆昌を
       極めたのでありますが、明治維新に際し、院を廃して嵯峨の大覚寺に合併され、境
       内の一部を割いて純然たる神社と成りました。是が則ち現今の境内でありまして、
       なお1500余坪を有しているのであります。廃院の際に附随の建築物、記録等は
       大いに喪失しましたのを、爾後整理して、明治6年(1873)村社に列し、更に
       安井神社と改称。同15年(1882)、郷社に昇格、指定神社の一つとして、洛
       中有数の神社たることを久しく認められてまいりましたが、戦後、宗教法人に改組
       されるに及び、古くから世俗に親しまれて参りました「安井金比羅宮」に復元、今
       日に至っております。
       当宮はまた、藤・山吹の名勝の地としても知られ、第六十二代・村上天皇の御製に
        まとゐしてみれとも
        あかぬ藤なみの
        たゝまくをしきけふ
        にもあるかな
       と詠まれており、往昔、新更科とも称えられた観月の名勝でもありまして、中秋、
       洛陽の文人墨客が此処に集い、東山の月を賞したのでありました。現在月見町など
       とありますのは、その名の残りでありまして、当時をしのばせるものがあるのであ
       ります。
       当宮と御祭神
       当宮は第三十八代・天智天皇の御代に、藤原鎌足公が一堂宇を創建して、自ら紫色
       の藤樹を植え、藤寺と号して家門の隆昌と子孫の長久を祈ったのに始まり後、第四
       十五代・聖武天皇の御代に至って、詔勅によって堂塔を改修増築して規模を拡張、
       観勝寺と改号されたと伝えられております。
       爾来、常に歴代天皇の御崇敬を得て参りましたが、中でも第七十五代・崇徳天皇は、
       この紫藤を愛し給い近衛天皇に譲位されて上皇とならせ給うてからの久安二年
      (1146)−今から816年の昔−堂塔を修造して寵妃・阿波内侍をこの地に住ま
       わせられ、屡々御幸遊ばされておりました。
       当宮と主祭神・崇徳天皇との御関係に、一汐、意義深いものを覚ゆる次第でありま
       す。」
  住  所:京都市東山区東大路松原上ル
  電話番号:075−561−5127
  ひとこと:この神社は、「縁切り神社」として有名かもしれません。
       しかし、ただ、悪縁を切るだけでなく、その後良縁も結んでくださるということで
       も知られています。

       中でも有名なのは、境内にある、「縁切り・縁結び碑」でしょう。
       この石をくぐれば、悪縁を切り、良縁を結んでくださるというわけですが、
       これには作法があります。

       ・まず、備え付けの形代(お札)を、百円以上の志により受け取ります。
       ・それに願い事を書き入れます。
       ・形代に息を三回、思いを込めて吹きかけます。
       ・願い事を心に念じます。
       ・そして、石を表(立札が立っている方)からくぐります。
        これで悪縁を切っていただきました。
       ・次に、石を裏からくぐります。
        これで良縁を結んでいただきました。
       ・最後に形代をのりで碑に貼り付けます。

       石は結構狭く、まぁ、私は細い方じゃないですけども(^^ゞなんとか膝をついて、
       潜り抜けることができる程の広さ。

       石の表面には、夥しい形代が貼り付けられてるので、それを見ないようにするの
       が大変でした。

       だって、知人の名前とかあったらやだも〜〜〜ん(T_T)

       ただし、この「悪縁」「良縁」は、何も人間だけを対象としているわけではない
       ということで、例えば、「怠け癖」を切って、「勤勉さ」と良縁を結ぶという願
       い事もOKといえるんです・・・が・・・。

       まぁ、怠け癖ってのは、自分の努力で断つもんなんで、最後の一押しをお願いす
       る、という気持ちでお願いしないとダメですよね。

      「過ぎた食欲との悪縁を切る」のも、勿論同じ事情ですよ。えぇ、そりゃそうです。
       当たり前ですとも。
       自分は、ばかすか食べて、全然我慢をせず、
      「食欲との縁が切れない!」
       と喚いたって、そりゃぁ、自分が悪いんどす。
       そうどすそうどす。
       その通り!!

       ・・・いや、すいません。
       リキが入りすぎてしまいました。

       さてさて、ご祭神ですが、顔ぶれを見ると、すこ〜し不思議です。

       崇徳天皇と大物主神には、ある共通点があります。
       それは、「祟った」ということ。

       崇徳天皇は、保元の乱の首謀者として讃岐へ流され、その後、大いに祟ったとさ
       れています。
       祟りについては何度か書いているので、詳しくは、上田秋成の「雨月物語」を御
       覧ください。

       大物主命は、崇神天皇の時代、祟りによって、祭りを促しました。

       そして、源頼政。
       この人物は、打って変わって、鵺退治の英雄なんですよね〜。

       なんか、相容れない。

       ん?
       そういえば、ご由緒書に、
      「随臣・源為義、同為朝」という名前が出てきますね・・・。兄弟?

       い〜〜〜えっ、違うんです。
       頼政は、後白河天皇方についてました。
       つまり、源為義・為朝とは敵。当然、崇徳天皇から見ても、敵。

       お・・・恐ろしい。

       敵同士が一緒に祀られてるの???

       しかし、崇徳天皇の敵が、源頼政というのは、少しおかしいですね。
       崇徳天皇が敵と見なしたのは、弟である、後白河天皇であり、頼政は、単にそ
       の味方をしたにすぎないのです。

       崇徳天皇は、きつ〜く祟りましたから、祟り封じに、強い人物を、という考え
       ならばわかるのですが、なぜ、後白河天皇ではなく、頼政公なんでしょうか?

       答えはわかりません。

       ただ、後白河天皇は、崇徳天皇の祟りをとても恐れたとされています。
       とてもそれに対峙して、祟りを治める力はなかったでしょう。

       頼政公にその力があったかどうかはわかりません。
       ただし、この人物、見るに、常に「勝ち組」なのです。

       保元の乱の後、源義朝と平清盛の間に軋轢が起き、平治の乱が勃発。
       この時、頼政公は、平氏側につくんです。
       源氏なのに・・・。
       他の源氏は、当然のごとく、源義朝についたというのに・・・。

       彼はつまり、イケシャァシャァとした人物らしい・・・という気がいたします。

       祟り鎮めるのは、多分、ヌケヌケとした人物じゃないと無理なんじゃないか、
       と、思うのでございますよ。
       そういう役にはうってつけだったんじゃないでしょうかね(^^ゞ

       頼政公のおかげかどうか、境内は穏やかで、社務所の方もとても親切に、いろ
       いろ教えてくださいました。

       崇徳天皇も、今はもう、怒ってはおられないのでしょう(~_~)

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