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池坐朝霧黄幡比賣神社

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  祭  神:天萬栲幡千々比賣命 菅原道真公
  説  明:境内案内を転載します。
      「延喜式神明帳に『池坐朝霧黄幡比売神社大月次相嘗新嘗』と見える。
       社名・祭神名の示す如く機織(幡)の神であって、推古帝二十四年(615)
       聖徳太子草創の法貴寺伽藍を賜った秦氏がその祖神守り神として崇敬した古社
       である。
       また法貴寺記録によれば天慶九年(946)九月十九日に北野天満宮より菅原
       道真公を勧請し、相殿した由が見える。古来法貴寺天神又は天満宮として遍く
       知られており法貴寺(長谷川氏の氏寺)の鎮守神として信仰をあつめていた。」
      「延喜式神名帳 城下郡の項に『池坐朝霧黄幡比売神社 大月次、相嘗、新嘗』 
       文献初出 天平二年(720) 大倭国大税帳(正倉院文書)『池神』の神戸
                      租稲
         以下 大同元年(806) 大和国に神戸 三戸を有す。『新抄格勅符抄』
            貞観元年(859) 従五位下より従五位上に昇位  『三代実録』
            天慶九年(946) 北野天満宮より菅原道真公を勧請・相殿
                                    『法貴寺記録』
            中世        長谷川党法貴寺氏の氏寺『法貴寺』の鎮守社
            貞応二年(1223)大般若経『五島家蔵』
                            『大和国長谷川法貴寺天満天神』
            至徳元年(1384)長川流流鏑馬日記に春日大社・若宮御祭の願
                      主人
            永正二年(1505)多聞院英俊が当社の神事見学 『多聞院日記』
            寛文十二年(1672)『天満宮』と見える     『大和志料』」
  住  所:奈良県磯城郡田原本町法貴寺宮ノ前
  電話番号:07443−2−2391
  ひとこと:秦氏と言えば、仏教でしょ?
       とおっしゃる方が多いと思います。
       私もそうです。

       なにしろ、秦河勝は聖徳太子の智恵袋的な存在ですし、聖徳太子といえば、仏
       教布教に熱心な皇子、とされてます。

       が、秦氏の創建とされる神社は、この神社だけではなく、泊神社もそうです。
       探して見れば、他にもたくさんあるでしょう。
       つまり、私は日本書紀にあるように、崇仏派(蘇我氏)と敬神派(物部氏)の
       争いというのが、本当にあったのか、非常〜〜〜に疑わしいと思ってます。

       案外、仏教を日本で布教した人々は、非常に上手く、神道を尊重しながら、仏
       教を広めたんじゃないか、と。

       日本の文化を評して、「猿真似文化」なんて悪口を言う人がいますが、それも
       日本人が、いろんな異文化を取り入れて自分のスタイルにするのが上手かった
       ということですよね?

       実際、日本における仏教は、かなり「日本的」だと思います。

       インドにおける原初の仏教というのがどういうものか、私はよく知りません。
       橋本治著「宗教なんて怖くない」では、
       仏教というものは、カースト制度というものがあって初めて成り立ったものな
       のである・・・と説明されてました。

       カーストというのは、
       バラモン(司祭)・クシャトリア(武士)・ヴァイシャ(庶民)、シュードラ
      (隷属民)の4つの位階から成り立つとされます。
       そして、彼らの生活の基盤には「輪廻転生」という考え方があります。

       そして、良い行いをして、カルマを精算することによって、次には今より高い
       位階に生まれ変わろうという風に考えるのです。
       悪い行いをすれば、次の生は、今より低い位階に下がるんですね。

       こういう考え方は、「悪い行いを諌めるため」には有効だと思います。
       理不尽なことを納得するためには、使えると思います。 

       が、タチの悪いのは、今現在虐げられている人々に対して、救済をしない言い
       訳として利用されることなんですよね。

      「君が今苦労してるのは、前世の行いが悪かったからなんだよ」
       と。

       くそくらわっしゃい!!

       そんな中で生れた仏教です。
       この仏教が素晴らしいのは、カーストのどの階級の人間でも、等しく「解脱」
       できる、ということです。
       解脱とは、つまり「輪廻の輪から解脱する」ことだったんですね。

       輪廻から解脱した人はどこへ行くのか。
       日本では、「成仏する」と考えてますね。

      「チベット死者の書」という本を読んだことがあります。
       これは、チベットにおける高僧の弟子が体験したことをつづったという形式で
       纏められた書物でした。

       本文は、高僧のところへ死者が出たという知らせが届くところから始まります。
       高僧は、仕度をして死者が眠る部屋(洞窟だったかも)に赴きます。

       そして・・・。
       死者の耳元でささやき続けるのです。

      「今あなたの前には7色の光が見えるはずだ。一番左は紫の神々しい光だ。その
       次は藍色の柔らかい光・・・・・・そして一番右は灼熱の赤い光。畏れるな。
       そなたの進むべきは、赤い光の源なのだ」

       一日目にして、死者が、一番恐ろしい(しかし解脱に通じる)道を選び取れば、
       高僧の仕事はそれで終わります。
       しかし、普通の人間にはそれはかなり難しいことのようです。

       この「耳元でのささやき」は、1週間続けられます。
       もし、1週間以内に、解脱への道を進むことができなかった死者は、輪廻し、
       生まれ変わってくることになります。

       これは、多分、チベットにおいて、チベット風にアレンジされた仏教でしょう。

       解脱への道は、常に炎が渦まいていたり、猛獣が猛り吠えていたりするのです。
       こういう「恐怖の対象」に対するイメージも、チベットのものでしょう。
       非常にシンプルで激烈です。

       これが中国に入ると、ちょっと「おとぼけ風味」が加味されるようです。
       道教の影響でしょうか?

       ちょっと話しが外れるんですが、
      「神仙伝」という書物があります。
       これは、中国の仙人の逸話を集めたものなのですが、これの第五巻に、「壺公」
       という仙人の話しが出てきます。
       いや、壺公は既に仙人なわけですが、この仙人に弟子入りしようとした「長房」
       という人物が、壺公にテストされる場面が面白いんですよ。

       まず一日目、長房を虎の群れの中に一人ぼっちにします。
       虎は長房に吠え掛かり、牙を剥きますが、長房、ちっとも動じず。

       二日目、長房は、今度は石で出来た洞窟に置き去りにされます。
       しかも頭上には大石。
       これが荒縄で結んであるだけ。
       その上、その累々たる蛇の群れがその綱を噛み切らんとしています。
       縄が切れたら長房はお陀仏・・・にも関わらず、涼しい顔。

       壺公は、「そなたは見所があるぞ」と大喜びします。

       そして、最終日。
       最後のテストは、比較的簡単です。
       壺公は、てんこもりのうんちを差し出し、
      「さぁ喰え」
       と。

       虎にも動じず、大石に冷や汗もかかなかった長房ですが、これには参った。
       なにしろ、でかい蛆がうようよ湧いてる上に、臭いのなんの。

       ためらっていると師匠は、
      「あぁあ、最後のテストに失敗しちゃったね〜。仙道は無理だね〜」
       ・・・ってそりゃないんじゃないの(笑)??

       ラスボスが、うんちですか(笑)

       虎に怯えないとは勇者の試練のようです。
       大石の前で涼しい顔は聖者の修行みたいですね。
       で、「うんち喰え」・・・って、こんなん小学生のいぢめやん(T_T)

       そんな風ですから、中国に入った仏教は少し大らかに変化したかと思われます。

       そして、日本へ。

       日本の仏教の特徴は、「大乗仏教」によく表れてるんじゃないか、と思います。
       厳しい修行をしなくても、仏を信じて南無阿弥陀仏を唱えていれば、極楽へ行
       ける・・・。

       これは、ある意味すごく「平等な思想」だと思います。
       だって、皆が極楽へ行きたいと、仕事を辞めて仏道に入ったら、日本国民皆飢
       えちゃいますから。
       厳しい修行をすることが出来る人ってのは、ある意味「特権階級」と言えるわ
       けですよね。

       つまり、「修行をしなくても・・・」という思想は、「特権階級じゃない人で
       も、心がけがよければ極楽へ行ける」ということなんです。

       これは「日本的」である。
       つまりは、「日本神道的」な考え方なのじゃないか、と思うのです。

       そんなわけで・・・。
       日本における、崇仏派と敬神派の争い。
       ほんまにあったんかいな〜??
       私は疑ってます(笑)

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