renai

率川神社

isakawa




  祭  神:媛蹈鞴五十鈴姫命(御子神) 狭井大神(御父神) 玉櫛姫命(御母神)
  説  明:ご由緒を転載します。
      「当神社は飛鳥時代、推古天皇の元年(593)、大三輪君白堤が勅命によって
       お祀り申し上げた奈良市に於ける最古の神社であり、社殿は県の指定文化財と
       なっています。
       媛蹈鞴五十鈴姫命は、神武天皇の皇后様として御坤徳高く、よく内助の御功を
       おたて遊ばされました。全国の神社の中で皇后様を主祭神としてお祭りした神
       社は珍しいことであります。
       狭井大神は、日常必需の一切の守護神であり、縁結びの神であらせられる大神
       神社の大物主大神、また出雲の大国主神と御同神であります。
       子守加護の神として中央に主祭神の御子神様を、左右には、ご両親の神様が御
       守護なさる姿で御鎮座されていますから、古来より一般に広く、子守明神と申
       上げ、鎮座地を本子守町と言って、安産、育児、息災延命の神様として特にご
       婦人方の信仰が厚く、多くの参拝があります。
       三枝祭
       このお祭りは、『さいくさのまつり』と申し、毎年六月十七日に執り行われる
       当社の御例祭であります。
       このお祭りの起源は古く文武天皇の大宝年中に属し、御本社で行われる鎮花祭
      (はなしずめまつり)と共に、特殊な神事として由緒深いお祭りであります。そ
       の名の起こったわけは、三枝(さいくさ)の花(笹ゆりの花)をもって酒樽を
       飾ってお祀りするからであると思われます。
       むかし、当社の御祭神媛蹈鞴五十鈴姫命が本社三輪山の麓、狭井川のほとりに
       御住居になり、その附近には笹ゆりの花が美しく咲き乱れていたことが国史に
       見えておりますが、その御縁故によって後世御祭神をお慰め申す為に酒樽に笹
       ゆりの花を飾っておまつりする様になったと言い伝えられています。笹ゆりの
       花は本名佐韋(さゐ)といいますが、三枝祭はこの故事によるのであります。
       このお祭は古くから国家の祀典として重んぜられ、光孝天皇の御代には勅田を
       奉られ、醍醐天皇の御代、この祭儀は神祇官から幣物を祝(はふり)につけて
       日を選んで行われ、又馬寮から神馬を献られるなど非常に丁重なお祭が行われ
       たのでありますが、後世いつの間にか中絶していたのを明治十四年再び古式の
       祭儀に復興せられ、現在に及んでいるんであります。
       このお祭の特に異なっている点は、黒酒、白酒を『吹iそん)』『缶(ほとぎ)』
       と称する酒垂ノ盛り、その酒垂フ周囲を三輪山に咲き匂う百合の花でふさふさ
       と飾り、優雅な楽の音につれて神前に御供えされる事であります。又神饌は古
       式により熟饌に御調理申し上げて折櫃に納め、柏の葉を編んで作ったふたをし、
       黒木の御棚にのせて御供えいたします。この三枝祭は本社の鎮花祭と共に、疫
       癘の鎮遏を祈請することを本旨とするお祭であります。」
  住  所:奈良県奈良市本子守町18
  電話番号:0742−22−0832
  ひとこと:この神社は、大神神社の摂社にあたります。

       お祭直前に参拝したので、社務所の前には百合の造花がたくさん用意されてい
       ました。

       宮司さんもお祭の用意でお忙しかったと思うのですが、百合の造花をしげしげ
       と眺めている私に、声をかけてくださいました。

      「なぜ、百合の花なのですか?」
       と質問すると、
       まずは、御祭神・媛蹈鞴五十鈴姫命とのご縁のこと。
       そして、百合は薫りが高いので、その薫りでもって厄病を祓うと古来信じられ
       ていたことを教えてくださいました。

       この山百合(笹百合)は、非常に繊細で、大三輪山でもなかなか育たないのだ
       そうで、ここ最近になってやっとよく育つようになってきたのだそうです。

       さて、媛蹈鞴五十鈴姫命と百合のご縁を記してあるのは、古事記です。
       その部分を引用してみましょう。

      「その伊須気余理比売(媛蹈鞴五十鈴姫命のこと)のお家は狭井川のほとりにあ
       りました。(神武天皇は)この比売のもとにおいでになって一夜お寝みになり
       ました。その河を狭井河というわけは、河のほとりに山百合草がたくさんあり
       ましたから、その名を取って名付けたのです。山百合草のもとの名は佐韋と言
       のです。後にその比売が宮中に参上した時に、天皇のお詠みになった歌は、
        葦原のしけしき小屋に
        菅畳 いや清敷きて
        わが二人寝し。
       かくしてお生まれになった御子は、日子八井の命・神八井耳命・神沼河耳命の
       お三方です。」

       しかし、いくつか疑問があります。

       なぜ、推古天皇の時代・・・つまり、都がまだ明日香村にあった時代・・・に、
       この奈良市に、しかも、推古天皇と同じ性別・・・女神・・・しかも、初代天
       皇のお后神が祭祀されたのでしょうか?

       推古天皇の時代、・・・つまり記紀編纂前・・・媛蹈鞴五十鈴姫命は、
      「初代天皇の皇后」だったのかどうか、
       という疑問もあったりしますが(^^ゞ

       日本書紀で、推古天皇元年を見てみても、特に、疫病が流行ったとか、何か不
       幸があったとか書かれてませんから、
       この神社創建のきっかけは、
      「推古天皇の即位」そのもの
       じゃないかと思うのですが、どうでしょう?

       推古天皇即位にあたって、大神神社のご祭神の娘神を、奈良市(明日香村の、
       ほぼ真北になりますね(@_@))に勧請したのでしょう?

       女帝の、初代天皇の后への信仰。
       なにかちぐはぐな印象です。

       これは・・・。
       崇拝する側の女帝・・・推古天皇・・・が、実は、天皇の后であり、后であり
       ながら、執政をとらなければいけないような何か複雑な事情があったのか。

       もしくは、崇拝される側の女神・・・媛蹈鞴五十鈴姫命・・・が、実は女帝だ
       ったということでは?

       と考えるのが、ごくごくシンプルな発想なんですが(笑)
       まぁ、神武天皇の時代、実は母系社会だったのならば、媛蹈鞴五十鈴姫命が女
       帝だったという発想は、それほどぶっ飛んでない・・・かな(笑)??

       ところで、ちょっと気になったのが、酒樽の名前、「吹v・「缶」。
       両方とも「缶」という偏がつくんですよね。

       そもそもこの「缶」という文字にはどういう意味があるのでしょう?

       三省堂の「漢辞海」で、「缶」を引いて見ますと、
      「1.ほとぎ
         ア.酒や液体を入れる素焼きの器。ふたつきで、口は小さく腹部は大きい。
          『瓦缶(素焼きのほとぎ)』
         イ.ほとぎを打楽器として演奏用にしたもの。
       2.水を汲む容器。つるべ。」

       なるほど。私達は、「缶」というと、金属製のものというイメージですが、も
       ともとは素焼きの器なんですね。で、この字はまさに象形文字だということで
       すから、「缶」の形をした器ということですね(笑)

       また、この「缶」を楽器にしたのは、秦の人々だそうですから、「缶」は、秦
       からやってきたのかもしれませんね。
       
       2014年6月17日、「三枝祭」を見学してきました。

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