renai

三石神社

mitsuishi




  祭  神:神功皇后(併応神天皇) 天照皇大神 素盞男大神
  説  明:境内案内板を引用します。
      「古くは往来神又は雪気神と称していたが、後世三石大神に改称すると伝えられる。
       神功皇后摂政元(西暦201)年二月、三韓より凱旋の途、務古の水門に上陸し(務古水門は今の和田
       岬より駒ケ林までの湾曲した海浜の総称、中世には大輪田の泊と称する)、三つの石を建てて神誨を
       得た。この跡に祠を建て、大輪田泊の鎮護とし、神号を往来神と称す。後に雪気神とも記す。これ即
       ち当社の創始である。この時一夜にして一株三幹の松が生じたため、この地を三本松とも称する。
       弘仁三(812)年朝廷使を遣わして大輪田泊を修復した際、当社も修理されたという。『日本三代実
       録』清和天皇貞観元(859)年三月、従五位下の神階を授けられる。(『延喜式外社』)
       その後の兵乱により当社は再び荒廃するが、文禄二(1593)年時の代官・南條新左衛門尉が社殿を再
       建して、神功皇后の三つの石を建て占った故事によって、雪気の神を三石大神と改めた。
       享保七(1722)年七月、兵庫の人・井上八郎右衛門、幕府の許可を得て、和田岬の地を開拓して、今
       和田新田村の一村を設けるに当たりて、村端の美地に社殿を奉遷し、この時更に天照皇大神及び、素
       盞男大神を配祀して産土神と崇め、農事の豊穣も祈願した。
       文化四(1807)年六月、社殿は損に伴い、地本井上八郎右衛門、村民と協力して社殿を村の中央に奉
       遷し、社殿も改築した。
       明治三十九(1906)年十一月、時世の推移に伴い、境内地は三菱神戸造船所設立に伴う山陽道和田支
       線の敷設のため、官の裁可により現在の地に遷座した。
       大正九(1920)年十一月、皇太子殿下ご安産祈念、安産御守り・腹帯をご謙譲、以後皇后陛下・皇太
       子殿下の安産祈念御守・腹帯を献上す。(昭和二(1927)年・平成十三(2001)年)
       昭和二十(1945)年三月の神戸大空襲により社殿等は烏有を帰すも、宇治個数傾斜をはじめ諸会社の
       奉賛により昭和三十八(1963)年に正遷宮を奉仕したのが現今の社伝である。
       平成五(1993)年十一月、平成の大典事業として玉垣・参道・社務所等を改修竣工したが、
       平成七(1995)年一月十七日の阪神淡路大震災により社殿は元より鳥居等の石造物をはじめ社務所に
       至るまで被害を被ったが、いずれも厚志ある宇治個数傾斜や三菱神戸造船所・三菱電機神戸製作所を
       はじめ各企業の奉賛により逸早く復興し現在に至っている」
  住  所:兵庫県神戸市兵庫区和田宮通3-2-51
  電話番号:078-671-2531
  ひとこと:興味深いのは、神功皇后が帰朝して、三つの石を建てて占ったという記事でしょう。
       この占いにより、稚姫(生田)や天照大神の荒魂(廣田)、事代主大神(長田)、住吉大神(住吉)
       の鎮座地が決まったというのですが……。
       石が一つ足りない(^^ゞ
       
       そしてもっと気になるのが、広島県の淀媛神社との関連でしょう。
       淀媛神社にも三つの石が祀られていて、「隕石である」と説明しています。
       さらに、
      「神功皇后西国へ下向の際、鞆の浦に御寄泊になり、海神大綿津見命を祀られ
       後還都の際、御妹君淀媛命を此の地にとどめ祭主として奉仕せしめられた」
       とあります。
       
       西国へ下向というのが、熊襲退治のときなのか、三韓出兵のときなのかはわかりません。
       でも、出航の地とも考えられるわけで……。
       
       出航の地にも、帰朝の地にも「三石」があるというのが、なんともかんとも……。
       
       三石が何を意味するのか。
       オリオンの三ツ星とか考えちゃうわけですね。
       
       さて、どうでしょうね?

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