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水主神社

mizushi

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天磐船(うつぼ船)




  祭  神:倭迹々日百襲姫命(日本書紀)
       夜麻登々母々曽毘売命(古事記)
  説  明:境内案内を引用します。
      「倭迹々日百襲姫命
       奈良県黒田慮戸(現在の奈良県磯城郡田原本町黒田)に居を定める。御年七才より黒田を出、
       八才にて水主宮内に着き給う。
       成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆成し水徳自在の神と称へられ奈良時代にはすでに
       神社形成をなしていた。
       
       水主三山(熊野三社)
       山嶽信仰 増吽僧正が遷宮すると伝えられる。
       ・新宮神社(虎丸山) 御祭神 伊邪那美命(国生冥界との深き神)
       ・本宮神社(本宮山) 御祭神 早玉男命(禊祓を司る神)
       ・那智神社(那智山) 御祭神 事解男命(龍神(水)・食物豊穣を司る神)
       
       水神社 御祭神 水波女命(井戸を司る神)
       
       水主神社別当寺 大水寺(開基は不詳)
       水徳山宝珠院神宮寺、寛文年中に大水寺と改める。
       本尊は阿弥陀如来(円光寺へ)
          不動明王、二童子(与田寺へ)
          十一面観音(坂手 観音寺へ)
       ・江戸末期まで、神仏混交 明治元年三月神仏分離令
       ・明治二年二月二十五日、正式に廃寺となる。
       
       ・伝教大師最澄(767~822)
        延暦九年(24歳のとき)水主神社・大水寺に参籠する。
        比叡山延暦寺建立す。(22歳のとき) 天台宗
        
       ・弘法大師空海(774~835)
        水主神社境内地於いて井戸を掘り水主神社に奉献する。
        高野山金剛峯寺・善通寺・真言宗(現在の閼伽谷の井戸)
      「水主神社は江戸時代まで大水主社と呼ばれた古社です。
       文献史料上の初見は『続日本後紀』承和三年(836)十一月七日条であり、『讃岐国水主神奉
       授従五位下』とあります。これは讃岐国で最も早い神階授位でした。その後、累進して正一位
       となり、大水主大明神と称するようになりました。
       また平安時代の法典『延喜式』の『神名帳』に『讃岐国二十四座大内郡一座小水主神社』と見
       え、讃岐国大内郡(ほぼ現東かがわ市に相当」で唯一の式内社でした。
       室町時代のはじめ(十四世紀ごろ)に『弘法大師の再来』と評される増吽僧正もこの神社ゆか
       りの人物です。彼は東寺(京都市)や高野山(和歌山県)、修験道のメッカである熊野三山な
       どで修行し、水主の那智山・本宮山・虎丸山を拠点として熊野信仰を広めたとされています。
       平成三十年三月三十日       東かがわ市教育委員会」
      「弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され、水主神社の祭神倭迹迹日百襲姫は、
       この争乱を避けて、この地に来られたと伝えられています。
       姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照りに苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水
       路を開き米作りを助けたといわれています。
       境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器
       が多数発見され、山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多くの文化財が納めら
       れています。社殿はすべて春日造りで統一されており、社領を示す立石は大内・白鳥町内に今
       も残っています。
       與田寺へ向かう途中の弘海寺付近には昔有名な『石風呂』があり、宿屋が栄え、『チンチン同
       しに髪結うて、水主のお寺へ参らんか』とこどもたちが歌ったほどにぎやかな土地でありまし
       た。
       昭和六十一年三月       香川県」
  住  所:香川県東かがわ市水主1418-1
  電話番号:
  ひとこと:境内にはうつぼ船があります。
      「社伝によると、今から二千有余年前、水主神社御祭神倭迹迹日百襲姫命、都皇居今の奈良県桜
       井市黒田幼き頃より神意を伺いまじない、占い、智能のすぐれた御方と言われ、都皇居に於て
       塵に交なく人もなき皇居の黒田を出られ、お船(うつぼ船)に乗りまして、西へ西へと波のま
       にまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の裏に着き、清き所を求めて今の水主の里宮内にお着き
       になり住われ(ここを大内と言う)、土人に弥生米をあたえて米作りまた水路を開き雨祈で雨
       を降せ文化の興隆をなされた御人といわれる
         水主神社社務所」
       とあり、宮司さんに尋ねましたら、古文書が残ってるそうです。
       
       門外不出だそうなので、本文がどんなものなのかはわからないのですが、境内案内板にあった、
       田原本町を7歳で出発してこの地につき、成人になって田原本町に戻った云々。
       そして卑弥呼の死後、争乱を避けてこの地に戻ったという伝承は、古文書によるものだとか。
       
       気になるのは「うつぼ船」と強調されているところでしょうか。
       
      『妙宿集』や『風姿花伝』では、秦河勝も、能を世に広めたのち、うつぼ船に乗って坂越に至っ
       てるんですよね。
       
       説教節の『小栗判官』なんかでは、照手姫は罪人としてうつぼ船に乗せられています。
       
       うつぼは「うつろ」ですから、子宮だと思うんですよ。
       つまり、罪人として一度死に、生まれなおすってこと。
       
       また、「成人までここにいた」というのも、古文書には「人と成りて」とあるそうで、「人」
       が一人前の女性を指すのであれば、やはりこの地での生活は、なにがしかの通過儀礼だったの
       ではないかなと。
       
       四国は島ですから、流刑地でもありました。
       木梨軽皇子は讃岐に流されましたね。
       それを追ってきた衣通姫は、うつぼ船で来たのではないのかな……とか。
       
       想像が広がります。

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