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生石神社

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  祭  神:大己貴神(生石大神 大国主神ともいう)
       少彦名神(高御位大神 粟島神ともいう)
  説  明:ご由緒書を転載します。
      「日本三奇石乃寶殿 鎮の石室(いわや)とは
       神代の昔大穴牟遅(おおあなむち)少毘古那(すくなひこな)の二神が天津神の
       命を受け国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時、二神相謀り国土を
       鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工
       事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多神々を集
       め(当時の神詰、現在の米田町神爪)この賊神を鎮圧して平常に還ったのである
       が、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである。
       時に二神宣はく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫
       に国土を鎮めんと言明せられたのである。以来此の宮殿を石乃寳殿、鎮の石室と
       稱して居る所以である。
       生石神社の創建
       人皇十代崇神天皇の御代(西暦97年)日本全土に悪疫が流行して人民死滅の境
       にある時、ある夜二神の夢枕に現れ『吾が霊を斎き祭らば天下は泰平なるべし』
       とのお告げがあり、依って此所に生石神社が創建せられたのである。
       以来忽ち悪疫も終息して天下泰平となる。」

       境内案内板を転載します。
      「創建 崇神天皇十三年申日
       三方断崖に囲まれ、池中に石殿横たわる。古びた樹木が上部に生い茂っている。
       四方三間半(約6.36M)棟へ二丈六尺(約7.87メートル)日本三奇の一
       つで、御祭神の作と言い伝えられる。三奇とは塩釜神社の塩釜、霧島山の天逆鉾、
       石の宝殿である。俗に浮島という。この浮くは石工の用いる言葉で、岩にひびが
       入る即ち割れ目の出来ることを意味している。即ち石宝殿と台石との間にひびが
       入っているので浮石という。
       沿革 大己貴神、少彦名神、天神の勅命で国土経営のため出雲から当地に立ち寄
       りになり、この宝殿山に仮宮を作って御滞在された時、この石宝殿を刻まれた。
       工事中に天佐久売(あめのさぐめ)がやってきて今麓の里で阿賀神が反乱を起こ
       していると二神に告げたので石宝殿作りの工事は中止して今の神爪(神詰で神爪
       の名称の起こりという)に諸神を集めて阿賀神を平定されたが石宝殿作りの工事
       は捨てられたので未完成に終わった。この工事で生じた石屑は一里北の高御位山
       に捨てられた。
       高御位の北側に頂上から麓にかけて莫大な石屑が今尚あり、魚の象になっている。
       この付近には岩を切ったあとかたは全くない。
       崇神天皇十三年に創建されて以来、伊保荘、平津荘の鎮守として崇められ、孝徳
       天皇は白雉五年、千石の土地(現在の生石、神爪、島の土地併せて千石)を寄付
       されたので、この三ケ町は墓地をいみ、生石は魚橋、神爪は岸、島は米田に墓地
       を作り、宮百姓と称していたので大いに栄えていたが天正年間豊臣秀吉の焼打ち
       に逢い、土地は没収、鐘楼・釣鐘は分捕りされ、当社の宝物・古文書は焼失し、
       没落した。鐘は陣太鼓代わりに使用した後、岐阜県大垣市赤坂町の安楽寺に寄付
       した(この鐘は大垣市の指定文化財)鐘には播州石宝殿と寄進者の名が入ってい
       る。
       荒井川はもと御手洗川と称し、神々が手を洗われたと伝える。泊は神々が御泊り
       になったので、とまりの名称が出来たと伝えられ、今日の加古川市泊の名の起り
       という。」
  住  所:兵庫県高砂市阿弥陀町生石
  電話番号:
  ひとこと:石の宝殿。
       すンごい石ですよ。全く。

       感心しすぎて、上から撮影するのを忘れたのが、返す返すも残念ですが(T_T)
       ただ、「宮殿」というには、すこ〜し狭いような気もしました(^^ゞ

       さて、この神社の歴史を簡単に整理しますと、

       ・大己貴神(生石神)と少彦名神(高御位神)が、国土を鎮めようと宮殿建設
       ・阿賀の神の反乱
       ・神々が終結して、阿賀の神鎮圧
       ・宮殿は工事半端にして建設中止
       ・大己貴神・少彦名神は石に籠もり国土を見守られる
       ・少なくとも274年以上の時間が経過
       ・疫病流行
       ・お告げにより生石神社創建。
       ・疫病鎮圧

       ということになります。
       細かいことを言えば、

       ・宮殿は、なぜか「一夜」で建設されるべきものだった
       ・石屑は、(少彦名神と関係が深いと考えられる)高御位山に捨てられた
       ・その石屑は、なぜか「魚」の形をしている
       ・反乱を起こしたのは、「阿賀の神」
       ・反乱の知らせを持ってきたのは、「アメノサグメ」
       ・神々が集まった場所は「神詰」。泊まった場所は「泊」

       こうやって箇条書きにすると、いろいろ気になる点が出てきます。

       まず一番最初に気になるのは、「阿賀の神」って?
       ですね。

       この神の名は、記紀では見かけません。
       ただ、播磨国風土記に、
      「英賀(あが)の里 土は中の上である
       右、英賀と称するのは、伊和大神の御子の阿賀比古・阿賀比売の二柱がこの処
       に鎮座しておいでになる。だからこの神の名によって里の名とする」
       と出ています。

       この神については、どんな神であると書かれてはいませんが、地図を開きます
       と、「播磨」・・・姫路市に「英賀」の地名は確かにあります。
       生石神社から直線距離で、ざっと15キロ程度。

       この地の土地神様だったのかもしれません。

       そして、なぜ、「一夜」で建築されなくてはならなかったか?

       これは、もしかしたら深い意味があるのかもしれませんが、もしかしたら、神
       のなさる事に、神秘性を加味したい、という単純な意図かもしれません。

       いや、だってね(^^ゞ
       この神社、豊臣秀吉の焼き討ちにあってるんですよ。
       秀吉について有名なエピソードはいろいろありますが、中でも、「一夜城」の
       手柄は、かなりワクワクさせられます。

       小学校の時、担任の先生から教わったのは、ざっとこんな話しです。

       信長は美濃攻めの足がかりにするために、墨俣に城を築こうとするんだね。
       後で秀吉と仲が悪くなる柴田勝家っていう武将がいてね。
       この人は、はとても偉い人だったんだけど、城を建てることができなかった。
       その他の武将も失敗してねぇ、信長も城を諦めかけてたんだねぇ。
      (注:先生は、秀吉贔屓だったので、自然、柴田勝家公がお嫌いだったようです)

       ところが、やっぱりこの墨俣は大事な地だということで、一番賢そうな秀吉に
       信長は「城を建ててみろ」と命令したというわけです(注:先生は秀吉贔屓)。

       でも、数々の武将が失敗するような場所です。
       なんで失敗するかというとねぇ、城を建ててたら、敵が邪魔しにくるわけだ。
       だから、秀吉は考えたんですね。
      「敵をびっくりさせよう」
       と。アタマいいねぇ(注:先生はとっても秀吉(略))。

       それで、一晩のうちに、外の囲いだけ作っちゃって、敵が
      「うわぁ、一晩で作りやがった、うわぁ入れない」
       と慌てているのを尻目に、あと一週間ほどで、城すべてを作ったんだねぇ。
       それで、信長は秀吉のことを、
      「こいつはやりおる」
       と考えて、取り立てたんだね。
       秀吉は、すごい人だねぇ。偉そうだけど、智恵がない人とは違うねぇ(注:
       先生は秀吉贔屓で、勝家(略))。

       とまぁ、ざっとそういうことです(笑)

       この神社を焼いた秀吉が一夜で城を造る準備をし、一週間で築城を終えたの
       ならば、この神社の御祭神は、(邪魔さえなければ)一夜で宮殿全部を建て
       るはずだったんだもんね、と。
       そういう「対抗」もあったのかもしれません。

       また、この地に大己貴神と少彦名神が鎮座ましましてから、崇神天皇の時代
       まで、疫病の流行はなかったのか?という疑問もわいてきます。
       ただ、崇神天皇の時代の疫病は、「人民死滅の境にある」ほどのひどい流行
       だったようです。
       ですから、それまでの疫病流行は、それほどひどくはなかったのかもしれま
       せん。

       反乱の知らせを持ってきたのが「アメノサグメ」というのは、疑問というほ
       どのことではありません。
       この「アメノサグメ」という神は、
       わざわざ高天原から国譲りの交渉にやってきながら、
       出雲に寝返ってしまった天稚彦に、
       その稚彦の様子を見るために高天原からやってきた雉女を撃つようにそその
       かした神とされてます。

       つまり、「情報通」な神なのでしょう。

       ということで。

       私が一番、いっちばん気になるのは、少彦名神の別名ともなっている「高御
       位山」に、石屑を捨てたとされていることです。

       大己貴神と少彦名神は、一般に仲良しのイメージが強いです。

       伊予国風土記逸文では、大己貴神は少彦名神を生き返らせるために、奮闘し
       ます。

       播磨国風土記「神前郡」では、二人で、
      「粘土をかついで遠くまで行くのと、糞をしないで遠くまで行くのと、この二
       つのうちどっちがやりとおせるだろうか」というアホな賭けをされてます。

       何よりも、この二柱の神は、記紀では、「一緒に国土を造った」とされてい
       るんです。

       でも、ここの伝承。
       生石(大己貴神の別名)に宮殿を建て、その時に生じた石屑を高御位(少彦
       名神の別名)に捨てた。
       を見ると、まるで、イジメっす(^^ゞ

       石屑を捨てるということ何か意味があるのでしょうか?

       ヒントは、「魚の形の屑」があることかもしれません。
       つまり、それを「屑」と見るのは、私たち人間の浅墓さであり、その屑全て
       は、何か意味のある形をしているのかも。

       それを少彦名神は、大事に自分の山に持ち帰ったのかも。
       山の名は、「高御位」。
       とても「大事そう」なお名前ですしね(#^.^#)

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