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巨勢山口神社

こせやまぐち




  祭  神:伊邪那岐神 伊邪那美神  
  説  明:国道沿いに、「式内大社・巨勢山口神社」の看板がありました。
       境内看板などがありませんでしたので、「日本の神々」を引用
       します。
      「『巨勢山』『巨勢野』は、今の古瀬集落とその周辺の山野にあ
       たると考えられている。さして広くはない山峡の地域であるが、
       曾我川の源流、重坂川がほぼ中央を貫流し、飛鳥・藤原京と紀
       伊国を結ぶ古道『巨勢路』が通じていた。当社の鎮まる巨勢山
       の麓には今も巨勢寺の塔跡や阿吽寺があり、古代の豪族巨勢氏
       の本貫地として栄えた面影を偲ばせている。
      『延喜式』神名帳には夜支布・伊古麻・巨勢・鴨・当麻・大坂・
       吉野・長谷・飛鳥・畝火・石村・耳成・都祁・忍坂の山口神社
       が登載されているが、『延喜式』祈年祭の祝詞にはこの十四社
       のうち飛鳥・石寸・忍坂・長谷・畝火・耳無の六社のみがあげ
       られている。そして、これら六社がいずれも飛鳥・藤原の古京
       に近い山々の山口神社であるのに対し、当社を含めた他の八社
       は、そこからは距離的に隔たっている。おそらく六社よりやや
       おくれて、平城遷都のころ、大和国全体という視野から山口神
       社に加えられたのであろう。
      『三代実録』によれば、当社は他の山口神社とともに貞観元年
      (西暦859年)、従五位下から正五位下に昇叙され、同年九月
       八日には風雨祈願のため官使を遣わされ、幣を賜っている。
      『延喜式』神名帳には葛上郡『巨勢山口神社 大 月次新嘗』と
       あり、大社として月次祭と新嘗祭に案上の官幣を賜ったが、そ
       のほか旧暦二月四日の祈年祭には通有の幣のほかに馬一頭を加
       えられた。また祈雨神祭の八十五座に列なり、臨時の幣帛に預
       かった。平安以後の沿革については不明であるが、『大和志』
      (享保二十一年刊)は、『巨勢山口神社、古瀬村今称高社、上梁
       分曰正長元年修造』と記している。」
  住  所:奈良県御所市古瀬宮ノ谷
  電話番号:
  ひとこと:この神社も・・・。
       山「口」ちゃうや〜〜〜〜〜ん(T_T)
       でした。

       しかも、階段の一段一段が高い。
       上昇するためのエネルギーは、重量(つまり体重と荷物の重さ
       ですね)×高さなのだから、急だろうがなだらかだろうが、総
       体的には同じやろう!!

       そう思います?
       そんなあなたは、力点と作用点・支点などのことを考えてない
       でしょう。背が高いでしょう?もしくは、脚長いでしょう!!

       うわ〜〜〜〜〜ん(T_T)!!

       さて、「巨勢氏」について、私は全く知りませんので、少し、
       調べてみましょう。

       巨勢氏は、蘇我氏と同じく、武内宿禰を祖とする豪族で、飛鳥
       時代には、大臣家だった、名家です。

       巨勢姓の有名人には、
       継体天皇を擁立した巨勢男人。
       日本画家の巨勢金岡。
       そして、九十瀬入道がいます。

       この九十瀬入道がかなり興味深い人物(?)なのです・・・。

       九州は筑後川の支流・巨勢川を統べる総大将こそ、この九十瀬
      (こせ)入道なのですが、彼は人間というより、河童でした。

       しかも、この大将・九十瀬入道一族は、なんと、壇ノ浦で敗れ
       た平家の成れの果てだというのです。
       そして、勿論、九十瀬入道は、平清盛の化身だと。

       田主丸観光協会発行のガイドブックによれば、
       真辺仲庵というお医者様が延宝三年に書したという「北筑雑藁」
       に、
      「九十瀬川と名ヅクルモノアリ。其の水中ニ神有リ、九十瀬入道
       ト号ス。尼御前ト匹配タリ。時々此川ニ会ス。
       風雨暴発シ、水面チクワクスルハ乃チ其ノ候ナリ」
      「或イハ、曰ク九十瀬入道ハ平相国浄海ニシテ尼御前ハ、乃チ其
       ノ夫人、二位ナリ」
       とあるそうです。

       つまり、九十瀬川の中に九十瀬入道という「神」がおられ、尼
       御前、つまり奥さんの二位尼とこの川で時々会うのだが、その
       度に暴風雨が起き、洪水になる、というのですね。

       そして、この九十瀬入道は、平相国浄海つまり、平清盛のこと
       である、と。

       巨勢氏と平清盛に何か繋がりがあるのでしょうか?
       平氏とは、皇族が臣下に下る時に与えられる姓ですから、言っ
       てみれば、天神の血筋です。
       巨勢氏は?
       武内宿禰の血筋ですし、皇族との関係は非常に深いといえるで
       しょうけれども・・・。

       その二氏がについて、片方が片方の「化身」とされるとは。

       何か意味深ではありませんか。

       そして、「川の氾濫を起こす」九十瀬入道が、山に神様を祀る
       巨勢氏の一族だ、というのも、ちょっと面白いかもしれません
       ね。

                 **後記**
       九十瀬入道について、メールで情報をいただきました。
       お許しをもらいましたので、原文まま、転載します。

      「福岡県浮羽郡田主丸町の九十瀬入道についてですが、別名を巨
       瀬入道といいますが、田主丸町歴史研究家によれば、古代豪族
       の巨勢氏からではなく、同地方にある巨瀬川の「巨瀬」を取っ
       て名乗ったということです。例えば、『源氏の一部のものが、
       足利という土地を領するようになり、その後、足利を名乗るよ
       うになった』というように、中世の武士は、本貫地とする地名
       を氏としていますが、平氏の残党である武士が巨瀬川付近に住
       むようになって、自ら巨瀬と名乗ったのではないかと思います。
       なお、田主丸町史によれば、この九十瀬入道は、物語である旨、
       記載されています。」

      「九十瀬入道については、福岡県浮羽郡浮羽町大字妹川(江戸時代
       まで、妹川村と呼ばれていました。)にある大山祇神社内にある
       御神体の敷板にも、次のことが書かれています。
      『妹川村地方は昔巨勢氏の領地であった。この巨勢氏の同族である
       妹川朝臣が開墾したので、この地を高西(こせ)の妹川という。
       巨勢大夫人は白鳳年中(五三八年〜七一〇年)勅命により賊を討
       ったが敗れたため罪を蒙った。その子孫である蟻(あり)は僧と
       なり諸国を修行し、先祖の遣蹟を慕ってこの地に来り住んだ。天
       宝壬寅春村民のために山神をまつって、田園の守護神として崇め
       させ、樋を設けて濯漑の便をはかることなどを教えた。爾来鳥獣
       の害、早魃の憂いもなく五穀豊穣、居民は益々さかえた。蟻入道
       は後年自ら九十瀬入道(こせにゅうどう)ととなえたが、ある日
       山に入ったままとうとう帰らなかった。
       村民は、敬慕のあまり滝のそばに小伺を立てて蟻権現とあがめた。
       これがいわゆる九十瀬水神である。』(原文は漢文)
       大山祇神社については、壇ノ浦の敗戦後、平家の将卒は、九州に
       ある巨瀬川を上って福岡県浮羽郡浮羽町大字妹川の樫ケ平に至り、
       同地にある大山祇神社を祭って戦勝の再興を祈願したそうです。
       九十瀬入道については、浮羽町史等が、平清盛や平家関係の人物
       である旨記載しておりますが、田主丸町史には、道君氏の15世
       及麿(ちかまろ)の捨い子であり、後に石垣山観音寺の中興の祖
       となる金光坊然廓(ねんかく、童子のころ現若(ありわか)と名
       付けられたそうです。)伝説の影響下で構成されたものではなか
       っただろうか、と記載しており、この九十瀬入道が、実在の人物
       であったかどうかには、未だ分かりません。今後も調査を続けよ
       うとおもいます。
       なお、巨瀬川は巨勢川とも書きますが、巨勢川という川の名は巨
       勢氏から来ているそうです。何かの本で読んだのですが、福岡県
       には、筑後川があり、灌漑用水のため、巨勢氏が筑後川から支流
       を開いたので、巨勢川と呼んだそうです。」

       巨勢氏と、九十瀬入道の関係、そして、平家の関係は、つながり
       そうでつながらない、つながっていないようで、つながっている
       というような微妙な関係なのですね。
       ただ、私が面白い、と思ったのは、「蟻」という名前です。

       日本書紀にも、朝廷から見て邪魔者には、「いるか(入鹿)」だ
       の、「うまこ(馬子)」など、動物の名前がつけられていること
       が多いのです。
       蟻入道は、罪を蒙った巨勢大夫人の子孫である、ということです
       が、巨勢氏が、当時の朝廷にとって、侮れない勢力だった、とい
       う証拠にも思えてくるのです。

       情報ありがとうございましたm(__)m

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