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須波麻神社

suhama




  祭  神:大国主命  
  説  明:境内案内板によりますと、
      「ご祭神は大国主命、いい伝えでは当社の祭祠は出雲大社と同体
       で、古くは十月七日に大祭をしていたという、現在の社殿は、
       明治三六年(1903年)に建築されたもので、拝殿うしろの
       本殿は、本殿は春日造りである。
       平安時代の「延喜式」「神名帳」に記されている延喜式内社で、大
       東市では唯一のもの。
       旧讃良郡から若江郡にまたがる数十ヶ村の氏子をかかえていた
       という。
       現在は中垣内一村の産土神である。 
       境内入り口のおかげ燈篭(文政十三年(1830年)十二月)
       は道標を兼ねたもので、近くの東高野街道筋から移されたもの
       である。  」
       とあります。
  住  所:大阪府大東市中垣内
  電話番号:
  ひとこと:境内看板の撮影に失敗してまして・・・(^^ゞ
       途切れ途切れにしか読み取れません。
       よって、途中の増改築に関する説明は省きました。
       ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいm(__)m!!

       さて、この神社は大東市唯一の式内社ということ。
       しかも、出雲大社と同体??

       出雲勢力は、実は、現在の兵庫あたりまで及んだらしく、尼崎
       には、「スサノオ神社」が、あちらこちらにあったりします。
       また、奈良には、「オオモノヌシ神」をお祀りした神社がたく
       さんあります。ただ、この須波麻神社のご祭神が、どちらの流
       れの「大国主命」だとしても、勢力範囲からがすこ〜〜し、離
       れているような気がするんですよね??

       とすると、この神社は、出雲大勢力の本流ではなく、支流に属
       するかも知れない。
       中国地方から、兵庫あたりまでの本流勢力とは別に、細々と、
       大東市あたりまでやってきて、その地を支配していた出雲勢力
       があったのかも。

       さて、この神社のお名前、「須波麻」は、「すはま」と読みま
       す。
      「ハマ」という名前通り、この地域は、かなり水際。
       水害も多発したようです。つまり、あまり「安定した地」では
       なかったということ。

       もし、推理通り、出雲からやってきた民が、この地に移り住ん
       だのだとしたら、なぜ、この地を選んだんでしょう。
       ・・・もう、これは、完全な思いつきですよ。思いつきですが、
       スパッと言っちゃえば、出雲からの民は、農耕民族じゃなかっ
       たんじゃないの??ってことです。
       海洋民族なんじゃないか・・・とね。
       そう考えれば、出雲からやってきたルートもよくわかります。
      「海を船で渡ってきたのね!」
       多分ね。多分、陸路じゃないでしょう。

       あ、古代は、大阪市はほとんど海の底でしたから。

       大国主命が白兎を助けた話は、有名ですよね。

       鮫に皮をむしられ、泣いている兎に、大国主命は、川の水で体
       を洗い、蒲の穂の上に寝転がるように教えてあげるんです。す
       ると、あら不思議。兎の傷はすっかり癒えて、元通りふさふさ
       の毛皮になりました、というんです。

       しかし、この兎、なんで鮫に毛をむしられたかご存知ですか?

       この兎は気多に住んでいたのですが、大雨で沖ノ島に流されて
       しまったのです。
       気多に帰りたいけど、海は深く沖ノ島は遠い。

       そこで、海の鮫に、「鮫さんと兎ではどちらの数が多いか競争
       しよう」と持ちかけ、「数えてあげるから、一列に並んで」と、
       気多の浜までずら〜〜っと鮫を整列させます。
       あとは、鮫の背中をぽんぽん飛んでいけば、気多の浜にご到着!
       というわけ。
       ただ、この兎、詰めが甘かった!
       浜に着く一歩手前で、「や〜い、騙された〜」と、真相をバラ
       しちゃうんですね。

       別に、競争は競争でやればよかったのにねぇ。
       数えておいて、「兎の数の方がすこ〜し少ないです。いやぁ、
       鮫さん、すごいなぁ」とか言っておけば平和に済んだのに・・・。

       まぁ、そういう訳で、怒った鮫は、兎の毛皮をむしっちゃった
       んです。

       この物語、ちょっと違訳すると、こうなります。

       海の向こうからやってきた民族が、途中で凶暴な海の民に戦い
       を挑まれ、ボロボロになりながら、因幡の浜に辿り着いた。
       その民族を手厚く迎え、癒したのが大国主命である、とね。

       出雲の国は、海流の関係で、いろんな船や民族が辿り着いたん
       じゃないでしょうか?

       古代出雲は、民族の坩堝・・・「Melting Pot」だ
       ったかも、しれませんね〜。

       もし、そうならば、この須波麻神社は、一度出雲で大国主命に
       助けられた人々が、また旅に出て、この地に辿り着き、ご恩を
       忘れず、この地に命の恩人をお祀りした・・・などという想像
       もできちゃいます。

       出雲の民がこの地に辿り着いたのか、出雲の地を経由した放浪
       の民がこの地に辿り着いたのかはわからないけれど、大きな船
       がなかった時代に、出雲から大阪まで航海できたってのは、か
       なりすごい話ですよね。

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