shigoto

穂雷神社

kanayako

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西粟倉のたたら遺跡






  祭  神:天照大神 天手力男命 栲幡千千姫命
  説  明:境内案内板を引用します
      「初め火雷神を祭る。貞観七年(865)、神階正六位を授け奉らる。中古祭神の傳を
       失う。
       今は、天照大神 天手力男命 栲幡千千姫命を鎮祭し奉る。
       伊勢の内宮に倣う。
       明治六年村社に列し、馬見一村の崇敬神社たり。安倍区が奉祭。
       昭和二十年安倍区の氏神様として教に至る。
       平成二年七月」
      「当社は天照皇大神・天手力男命・栲幡千々姫命を祀っているが、元来は穂雷命を祀った
       ○○と考えられる。
       当社天具○広瀬川合社から、○○○○の氏神として奉○○明治以降は安部区字○○する
       ことにな○○」
  住  所:奈良県北葛城郡広陵町安部
  電話番号:
  ひとこと:この神社に参拝したのは、西粟倉村に伝わる、タタラ唄のことを知ったからです。
       村役場のサイトから、引用させていただきますね。
      「大茅の永昌山鉄山は、元禄12年(1699)から明治20年(1887)頃まで、土豪家や商業資本家
       達によって砂鉄精錬が行われてきました。年間、鉄の生産は35代(よ)、1代(よ)は3
       昼夜かけて炉を焚き、砂鉄より鉄を取り出すという重労働でした。
       中国地方の山地は、全国の70%を占めるタタラ産地として有名でした。それは、良質の砂
       鉄が豊富で、然も鉄を取り出すのに大量の木炭を使ったので、炭焼き用の原木に恵まれ
       ている等の条件が整っていたからです。
       中でも永昌山鉄山は、隣の兵庫県宍粟市(旧千種町)で行っていた各鉄山の技術、文化
       等の影響を多分に受けて、鉄の産地として繁盛していました。今もその遺構は、杉葉等
       で隠れてはいるが立派に残っていて、往時を偲ぶことができます。村内には大茅の他、
       塩谷、谷口、引谷地内にもあって、このタタラ場には必ず守護神として祭祀した金屋児
       神という神様がありました。
       島根県能義郡広瀬町西比田の金屋児神社(県文化財)に伝わる「金屋子祭文雲州比田の
       伝」によると、ある時村人が集まって雨乞いをしていた所へ、雨と共に播磨の国岩鍋
      (千種町岩野辺)に、我は金作りの金屋児神であるぞ、今より悪魔降伏、人民安全、五穀
       豊穣のことを教えようと、磐石をもって鍋を作られた、故にこの地を岩鍋というように
       なったと。神はこの土地に永く住み給う山もなく、白鷺に乗って西国へ、そして出雲の
       奥比田山のとある桂の木に降りられた。たまたま狩猟に出ていた安部正重という人が神
       のお告げを受けて神主となり、長田兵部朝日長者なる人が粉鉄を集めてこれを吹いた
      (製鉄した)。これが出雲の国のタタラ稼業の始まりだと伝えています。
       
       (タタラ唄の一節・・・)
          タタラナ子はヨー 乞食より劣りー 乞食や夜寝て 昼また稼ぐ
          金屋児神のヨー 生まれヨと問えばー 元は桂で 安部ヨが村よ」
          
       つまり、西粟倉村には、宍粟、そして出雲のタタラと深い関係のあるタタラ場がある。
       そして、そこに伝わる伝承では、金屋児神の生まれは、桂の安部村だというわけです。
       
       そしてこの「桂」は、どうやら葛城のことらしく、安部村はここ、広陵町の安部である
       らしいんですね。
       
       出雲で金屋子児神社がある地域も広瀬町。
       この神社のそばに広瀬大社がありますから、これも無関係ではないでしょう。
       
       葛城=葛の城
       ではなく、
       葛城=桂の城
       の可能性にもワクワクしますが、この付近はかぐや姫の里とされることにもウキウキし
       てしまいます。
       
       かぐや姫の名は「かがやく」と近く、それがその美しさによるものなのか、それとも、
       製鉄のための火が輝いている様子なのか……。
       そんなことを考えませんか?
       
       そしてそこに桂が絡んでくるとしたらです。
       
       桂といえば、金屋子神が降臨する木であると、出雲たたらの管理人さんから教えていた
       だきました。
       
       でも、桂と言えば、もう一つ、古い伝承を思いだしませんか?
       
       山城国風土記逸文にはこうあります。
      「山城の風土記にいう、-月読尊が天照大神の勅を受けて豊葦原の中つ国に降り、保食神
       のもとにおいでになった。その時一本の湯津桂の樹があった。そこで月読神はその樹に
       依ってお立ちなされた。その樹のあたところを、今も桂の里と名付けている」
       
       桂の里がどこにあったのかはわかりませんが、現在京都の月読神社があるあたりとも言
       われていますよね。
       
       月読尊が桂と関係づけられるのは、月に、高さ五百丈もの桂の樹が生えているという中
       国の伝承からくるものじゃないかなとは思います。
       
       古代の中国人は、月の模様は桂の木の陰だと考えたんでしょうね。
       
       一丈約3メートルですから、五百丈は1500メートル。
       ……でかすぎる(笑)
       
       でも、金屋子神が桂と関係があるのだとしたら?
       ……というより、金屋子神が月の神として見られていたのだとしたら?
       
       かぐや姫がここ、広陵町の出身だとしたら。
       この地の古い地名が「桂」なのだとしたら。
       
       ……いろんな「たら」をクリアしたらの話になりますけど(笑)
       かぐや姫と月の関連に、製鉄が絡んでくることになりはしませんか?
       
       それがすご~く興味深い。
       面白い!!
       
       西粟倉のたたら遺跡は、橋も落ちていてよく観察できませんでしたが、楠木正成公の刀
       はここの製だとか。
       
       葛城山麓のたたらは、南郷で造られていたというのですが、南郷遺跡南端に位置する吐
       山極楽寺は、楠木正成公の祈願所だそうなんです。
       
       楠公さんとたたらの関係も、興味深いですね。
       
       また、また、忍海の角刺神社でお会いした古老によれば、忍海界隈のたたらのメッカは、
       葛木坐火雷神社近辺なのだそう。
       
      「ホノイカヅチ」とたたらには、切っても切れない関係がありそうだなと思うのです。

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