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波々伯部神社

yamatsuteru

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社紋






  祭  神:素盞嗚大神 奇稻田姫命 八柱御子
  説  明:境内案内板を引用します
      「ご祭神は、もと祇園天神・牛頭天王で、現在は素戔嗚尊ほか二神であります。
       承徳二年(1098)波々伯部村が京都の祇園社へ寄進され、荘園・波々伯部保となりました。
       そこで祇園社のご分霊を勧請したもので、丹波の祇園さんと呼ばれています。
       八月四日、いつかがお祭りで、八台の山車の宮入と神輿三基の渡御があり、七年毎に、二台の
       胡瓜型の曳山を造り、十二体の木偶(県民俗)と呼ぶ操り人形の奉納があります。文楽の原形
       で大変貴重なものです。」
      「『波々伯部神社おやまの神事』県指定無形民俗文化財
        波々伯部神社の例祭(祇園祭)に三年ごとにおやまの神事が奉納されう。キウリヤマ(おや
       ま)の上でデコノボウと呼ばれる操り人形による人形戯が奉納される。中世的な人形戯の形態
       が伝承sらえており、やま行事の変遷を考える上で大変重要であることから、平成七年に県の
       無形民俗文化財に指定された。また、例祭で毎年奉納されるサンシャ(山車)の行事と合わせ、
      『波々伯部神社のおやま行事』として平成十七年に国に無形民俗文化財に選択されている。
       波々伯部神社の例祭(祇園祭)
        波々伯部神社は、波々伯部神社の氏子八ケ村(上宿、井ノ上、北嶋、宮ノ前、畑市、畑井、
       小中、辻)が、中世には波々伯部保という京都祇園社の社領であったことから、荘園鎮守の神
       として勧請されたと考えられている。例祭は、毎年八月第一土・日曜日に行われており、氏子
       の八集落から八基のサンシャが奉納される。なお、当社の青銅鳥居は市の有形文化財に指定さ
       れている。
       キウリヤマ・デコノボウ
        祇園祭の三年目ごとにはサンシャの外にキウリヤマと呼ばれる二基の山車が奉納される。キ
       ウリヤマの上部は青竹で組まれた枠組みに青と白の幕が張られ、デコノボウを奉納する舞台と
       なる。演目は『田原の藤太』『愛宕山』などがある。デコノボウは六体一組で二組十二体あり、
       頭と胴串だけの素朴な作りである。デコノボウは『波々伯部神社の祭礼操り人形』として県の
       有形民俗文化財に指定されている。
       祭礼組織
        サンシャは氏子の各集落によって奉納されるが、キウリヤマとデコノボウは社役人、宮年寄
       によって奉納される。社役人はキウリヤマの組み立てを担当し、宮年寄はキウリヤマの幕とデ
       コノボウの操作を担当する。
       例祭の次第(おやまの神事実施の年)
        宵宮祭(一日目)は、夕方から各集落のサンシャが神社へ向かって出発し、宮入を行う。本
       祭(二日目)は、午後に神事があり、各集落のサンシャが宮入して境内を練る。社役人・宮年
       寄は柿色の裃姿で参加し、御旅所へ向かう前に、大会謡を奉納する。その後、猿田彦を先頭に
       サンシャを従えて御旅所である大歳神社まで渡御行列が行われる。神社へ戻ったあと、宮年寄
       が太鼓を打ってキウリヤマを迎える。拝殿前にキウリヤマが東西に並べられ、行李に演題を書
       いた張り出しがあげられる。舞台が整うと、宮年寄がキウリヤマに入って人形を操る。
                                          篠山教育委員会」
  住  所:兵庫県篠山市宮ノ前3-2
  電話番号:
  ひとこと:この神社のご由緒自体は、さほど興味を引くわけじゃないんですが、角川書店の『日本の伝説』
       に、気になる話が載っているので、引用しましょう。
       
      「境内に枯れた松の古木があって鶴松と呼ばれ、ここのお宮はめでたいお宮、松に夫婦のくわえ
       づる、という民謡があるのは、祇園社から二羽の鶴が松の苗木をくわえて運んできたとも、多
       田満仲が祈願したさいに、松をくわえた夫婦の鶴が空から舞い降りたのでこの宮の紋所にした
       ともいう」
       
       鶴が松を咥えて……って、めでたいの二乗なんですが、それが却って不吉な印象を醸し出して
       いるのは気のせい?
       
       何より私が気になるのは、多田満仲です。
       彼は源氏の祖ではありますが、殺生を繰り返した、穢れ多き人物でもあります。
       そして満仲公をはじめとする多田源氏は化け物退治の系譜。
       息子の頼光は大江山の酒呑童子を退治していますし、六代子孫の頼政は鵺退治で知られていま
       す。
       もちろんそれは英雄的行為ですが、なぜ多田一族に化け物退治を命じられたのでしょうね?
       
       また、この神社の前を流れている篠山川をさかのぼったあたりに、「上宿」の地名が。
       
      「宿の民」とは、芸能を披露しながら全国を渡り歩いた人たち。
       例えば傀儡子や琵琶法師などですね。
       歩き巫女や願人と呼ばれる聖たちもそうだったのかもしれません。
       
       この神社のお祭りで、「木偶」の奉納があるのは偶然ではないでしょう。
       昔このあたりは、宿の民たちが集まる場所だったのかもしれません。
       
       そこに多田満仲でしょう?
       
       何があったのか、非常~に気になります。

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