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中言神社

nakagoto




  祭  神:名草彦命 名草姫命 八王子命
  説  明:境内案内板を転記します。
      「御由緒
       万葉の太古より、歌処として『万葉集』に詠まれている黒牛潟は、当神社の
       境内周辺で、紀伊続風土記に『この地、古は海の入江にてその干潟の中に牛
       に似たる黒き石あり。満汐には隠れ、干汐には顕はる因りて、黒牛潟と呼ぶ』
       とあり、地名として詠まれている。
       この小高い丘の上に嵯峨天皇の弘仁三年(西暦813年)紀伊国司が鎮守の
       神として八王子命を祀り、のち上代の海草地方の支配者名草彦命、名草姫命
       二柱のご祭神は、五箇荘吉原村に鎮座せしが、中世南北朝相せめぐ頃、冬野
       村に動座し、文和三年(西暦1354年)国造左京太夫度会貞国その霊爾を
       奉じて八王子社の側に奉遷し、中言神社と称す。
       兼ねて黒牛潟大明神と称する。
       御神徳
       夫婦二柱の神を主祭神とし、子供の生育成長を守り、縁結び、家内安全、陰
       陽和合の神として、中言の名も神と人との『中』を執りもつ『こと(言)』
       より出で、人々に崇敬せらる。」
  住  所:和歌山県海南市黒江931
  電話番号:073−482−1199
  ひとこと:牛という動物には、不思議な印象があるように思えてなりません。

       のんびりと草を食んでいる姿や、大きな糞をひり落しているところなどから
       は、とてもじゃありませんが、「神々しさ」を感じることはできません。

       しかし、たとえば、天神様として崇敬の篤い菅原道真公の神使いは牛ですし、
       赤目四十八滝では、役行者が赤目の牛に乗って登場したという伝承が残され
       ています。

       また、水神に捧げる動物は、まさしく牛でありました。

       たしかに、牛肉はおいしいし、高級だから、神も喜ばれるだろう???
       そういうことでしょうか?
       まさかね(笑)

       では、なぜ牛は、こうまで神と近しいと考えられたのでしょうか。

       まず、牛と神というキーワードからすぐに思いつくのは、「牛頭天王」では
       ないでしょうか。祇園信仰の対象であり、素戔鳴尊の別名とされています。
       名の通り、牛の頭をして、八人の王子がいます。

       ここ、「黒牛潟」の地に、八王子命がまつられたのも、このことと無関係で
       はないでしょう。

       そう考えると、牛頭天王とは、「牛そのもの」でさえもあったのだろうか、
       と思えるのですが・・・。

       牛頭天王を崇める祇園信仰には、疫病除けという大きな祭りがあります。
       京都の夏の風物詩、祇園祭りも、そもそもは疫病除けのお祭りでした。

      「牛」には、疫病から人を守ってくれる存在というイメージがあったのかもし
       れません。

       翻って、「牛」は牛でも、「鬼」のことを思い出してみましょう。

      「牛鬼」には、読み方が二通りあります。
      「うしおに」と「ぎゅうき」。

      「ぎゅうき」の方は、海に棲み、牛の頭に蜘蛛の体を持った妖怪。
       人の生き血をすするという恐ろしい妖怪です。

       そして、「うしおに」なのですが・・・。

       小学生時代の長い間、私の中で、もっとも怖い話として君臨したのがこの、
      「うしおに」の物語でした。

       まんが日本昔話は、言わずと知れた長寿番組ですが、夏になると、怖い話を
       一話放映していました。

       これは、その中のひとつ。

       若いきこりと、年配のきこりが山で伐採作業をしていました。
       長い時間がかかりますから、山小屋に泊まっての作業となります。

       ある夜、小屋を覗き込む影があります。

       見たこともない男です。

      「なにしとるんじゃ?」
       小屋の外から低い声で尋ねるので、
      「のこぎりの手入れをしとる」
       と、年配のきこりが答えます。

      「その、のこぎりは、よう切れるんか?」
       重ねて訪ねてきた男に、
      「あぁ、切れるとも。とくにこの鬼歯は、鬼さえも切ってしまうんじゃ。」
       年配のきこりがそう言うと、男は黙ってどこかへ消えてしまいました。

       これが毎晩。
       男のことばと、それに対する年配のきこりの返答は、毎度一緒でした。

       ある日、作業中に、あろうことかのこぎりの鬼歯が折れてしまいます。
       こうなっては修理するほかありません。

       年配のきこりは、若いきこりに、
      「一緒に山を下りよう」
       と言いますが、
      「なぁに、一人でも平気です」
       と、若いきこりは取り合わない。

       気がかりを残しつつも、年配のきこりが山を下り、若いきこりが一人、山小
       屋で休んでいると・・・。

      「今日は年配の方はおらんのか?」
       いつもの男がやってきました。
      「あぁ、山を下りた」

      「なんでじゃ?」
       男は食い下がります。

       ここで、いやなムードに気づけばよかったのですが、若いきこりはあまりに
       も、のんきでした。

      「あぁ、鬼歯が折れたんでな。修理しに降りた」

       そう答えたとたん。

      「そうか、それでは、鬼を切り裂く鬼歯はないんじゃな?」

       男は初めて山小屋の中にずいと入ってきたのです。

       ・・・・・・・

       年配のきこりが急いで鬼歯の修理を済ませ、山小屋に戻ると、若いきこりは
       おりませんでした。

       そして、山の端にある、誰も踏みいれない淵のそば。
       若いきこりの巾着袋がぽつんと落ちていたのでした。

       この牛鬼もまた人を食べるようです。
       たしか、物語の最初では、きこりが山で作業をしているときは、影に気をつ
       けなくてはならない。

       もし油断して、牛鬼に影をなめられたら、原因不明の熱病で死んでしまうか
       らだ・・・という説明が挿入されていたと思います。
       とすると、牛鬼の本性は、疫病そのものと考えてもよいかもしれません。

       そして、ここでも、「牛鬼」は、水・・・淵に棲むとされているらしいこと
       がわかりますよね。

       ここ、黒牛潟の牛もまた、海の中に棲んでいます。
       しかし、その性格は、人々に敬愛されるもののようなのでした。

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