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御澤神社

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御澤神社の池

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龍王寺

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龍王寺の池

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龍王寺の鐘楼






  祭  神:市杵嶋媛命 国常立尊 弁財天女 八大龍王 遣龍仁 聖徳太子 芦摩千地 芦摩都知
  説  明:案内板からご由緒を転載します。
      「御澤池の御本体は、国常立尊又一名を、市杵嶋媛命とある。
       当初、御鎮座は日吉神社と相殿へ鎮座される。日吉神社が鎮座される山を山王山(現・瓶割山)と
       称し、この山の麓を字・澤と称し、この澤の中央に、清水池、白水池、土水池(濁り池)の3ツの
       池があり、これを御澤池と称え奉る。
       御神霊勧請者、三十代敏達天皇御末(西暦580年代)、大和吉野郡小野の生まれ、小野時兼が、宝
       亀八(777)年、丁巳八月二十二日字山王山・山王権現現斎に鎮め給う(社蔵古文書の縁起に曰く)
       人皇三十三代推古天皇の時代、甲子十二(604)年、聖徳太子が蒲生郡長光寺本尊・観世音菩薩を
       刻み、この周辺(御領)の荒野を開かれたが、潤うべき小川や水がなく、蘇我馬子大臣を奉行とし
       て、田用水を求め山間を廻り、この澤、中央に池あり。この池の冷水を近郷の田地の潤水(用水)
       とした。
       この澤地に聖徳太子、震舎王の乙姫・幸姫と申し奉る龍神を池主とした。その後も、澤地の冷水、
       今に不増不減、湧き出し、近郷田地潤水限り無し、と言い伝えられる。
       人皇四十九代光仁天皇御宇・宝亀八年丁巳三月下旬、和州吉野郡小野姓生まれの小野時兼が、蒲
       生郡川守里に仮住まいしていた頃、安吉山雪野寺薬師如来へ参られた時、何れからとも知らず容
       顔美麗なる婦女来たり、時兼と互いに愛心発し、桟ねんの夫婦の契りを給いて三年過ぎ、その美
       女、時兼に向かいて『吾は人間にてはなし、前世の契り不足たるに依りて其の宿回にひかれ妹背
       となる。今日縁も尽きぬ』とて心残りを惜しまず、時兼に玉の手箱を預け渡し『此の手箱、百日
       百夜過ぎずば箱内見給うことなかれ。君が恋しくば比良木の澤地へ来たり給え。吾本体を見せん。
       吾は澤の池主なり』と申して失せ給う。
       時兼、恋路に耐え哀しみ、彼の澤地を訪ね来て池辺に立ち寄れば、彼の美女、十丈の大蛇となり
       姿を顕し給う。時兼、之を見て肝を消し怪しく思い、百日百夜を待たず九十九日にて手箱を開け
       ば、紅雲空に立ち昇り、雲中より梵鐘顕れ降り、此の梵鐘、時兼、安吉野山雪野寺に納め奉る。
       時兼、龍神の霊験を恐れ、龍神の霊を字山王山八王子同殿へ宝亀八年丁巳八月二十二日に神霊験
       を鎮め給う。
       龍神の霊験、四方に聞こえ、文安三(1446)年丙寅二月十七日、澤地不思議に荒れ、陸上に多く
       の水草上り、氏子民怪しむも、雪野寺本堂延焼、当たりの草木も焼け、鐘楼(時兼の梵鐘)へ火
       移らん時、俄に雲が出て、大雨降り、雪落ち、鐘楼は焼けず。
       又、寛正元(1460)年庚辰、天下干魃にて田畑草木まで乾損のため、氏子嘆き雨乞えば、大雨降
       り、草木まで潤い、民、百姓喜ぶこと限り無し、とある。
       文明六(1474)年甲午九月上旬、濃州侍の石丸丹波が、澤池に来て、龍神の由緒を聞き、安吉山
      (現・雪野山)雪野寺の梵鐘に望みを掛け、雪野寺に討ち入り、彼の梵鐘を下さんとする時、俄に
       雲立ち昇り、雨降り電雷鳴り落ちて、長夜の闇となり、三余人(多賀豊後守佐々木高頼、石丸丹
       波)の軍勢行方知れず逃げ去る。
       この時、御澤池、大いに荒れ、水草陸に多く上がり、氏子・近郷の者、不思議なるも神徳をうや
       まう。此のすぁ池の龍神を祈る者、十の徳を得る。
       一、国土安穏、二、五穀成就、三、海上安全、四、勝軍治国、五、田畑降雨潤水、六、衆人愛敬、
       七、無病長命剛力を持ち威猛を得る、八、心に随意衆宝を得て華南災難を除く、九、夫婦縁相・
       子孫吉祥、十、知恵深く悟りを得て実業を勤め親に孝心を得る。
                  御澤の神霊由緒調査書による
                  社守 森川常蔵(調進)
                  訳読者中島信男(野々宮神社宮司)
       毎年八月二十二日 例大祭」
  住  所:兵庫県美方郡新温泉町竹田1
  電話番号:
  ひとこと:もう一つの案内板には、八大龍王尊の別の名を和修吉龍神とし、遣龍仁を龍神眷属、蘆(芦)摩津
       地を守護男神、蘆(芦)摩千地を守護女神と説明しています。
       
       この神社を訪れたのは、角川書店の『日本の伝説』に興味深い話が載っていたからです。
       龍王寺の伝承は、この案内板にあった通りだが、御澤池に伝わる伝説は少し違う……と。
      「平重盛の遺児三和姫は、奸臣に陥れられて福原の都から流浪の旅に出た。近江の蒲生野へ来たとき、
       尾野時兼という者に出会って夫婦の契りを結んだのだが、この時兼が実は芦摩津地という大蛇が取
       り憑いた化身だったので、三和比賣もまた芦摩千地という大蛇に取り憑かれてしまった。
       二人は池に沈んで蛇身となった。三和比賣はこれも宿世の縁とあきらめたが、せめて人のために役
       立ちたいと八大龍王に祈ったところ、龍王が現れて、『そなたに平田のお沢の行けを与えよう。そ
       こで人びとのために水を守れ』と告げた。御沢神社の池は濁り池と澄池があって、濁り池の水は三
       和姫の化粧品がとけて流れ込んだためにいつも白く濁っているのだといわれる。
       森の中に湛えている二つの池は、魚がいるのかいないのか、水面は波紋ひとつ立てない。この池の
       一つには狛の長者の石臼が沈んでいるともいわれている」
       この話が本当なら、御澤神社の祭神は、小野時兼と三和姫ということになります。
       
       ただ、龍王寺で堂内を拝観した際、住職にいろいろお話を伺ったのですが、「そんな話は聞いたこ
       ともない」ということでした。
       
       ただ時鐘と龍女の悲恋だけが伝わっており、龍王寺の境内に湧いている池は、御澤神社の池とつな
       がっており、水の色がまったく同じだとおっしゃっていました。
       龍王寺の池は夏に干上がるのだけれど、秋になるとまた同じ色の水が復活するのだとか。
       そして、御澤池の水は決して枯れないともおっしゃってました。
       
       ただ、御澤池の境内には池や河がたくさんあり、どれが澄池で、どれが濁池だかがわからず(^^ゞ
       掲載した写真は祠の裏にあった……つまり御神体だろうと思われるものです。
       
       また、時兼が蒲生へやってきたのは病のため。龍王寺のご本尊・薬師如来を頼ったからだとか。
       そしてその子孫は、代々苗村神社の宮司職になっているというのです。
       
       小野時兼を調べると、武蔵七党の首長で、鎌倉幕府の御家人の横山時兼がヒットします。
       横山氏は小野氏を出自とするので、横山時兼を小野時兼と呼ぶこともあるのだと。
       そしてこのそばには横山っていう地名があるんですよね……。
       住職に「鎌倉幕府の御家人だという話は?」と聞きましたが、「聞いたことないですねぇ」とのこと
       でした。
       
       社伝にある年代が全然違いますもんね。
       小野時兼は奈良県吉野郡の出であると。しかも生まれたのは敏達天皇の時代。
       龍王寺の薬師如来を慕ってこの地に来たというのだけれど、龍王寺の建立は行基の時代だから、時兼
       がこの地に来たのは建立とほぼ同時だってことになります。
       でも、敏達天皇の時代に生まれて聖武天皇の時代にここへ来たってことは、そのころ100歳以上??
       なら、鎌倉時代まで生きて、武蔵で武家となり、鎌倉幕府に仕えてたりして……。
       っていうか、平家の姫が登場するってことは、鎌倉幕府と関わりを持ってても不思議じゃない。
       つか何歳まで生きたんだよ、時兼。
       
       ……う~む……よくわからないなぁ……。
       ただ、これだけはわかる。
      「小野時兼」は、キーパーソン。
       しかもしごく重要な。
       
       時兼が寄進した梵鐘は今も鐘楼に懸っており、雨乞いの霊験あらたかとされるとか。
       
       龍王寺は行基が開基とされ、ご本尊は平安時代の薬師如来。脇侍は右に地蔵菩薩、左に観音菩薩が立
       っておられます。
       付き従う十二神将は鎌倉時代とのことですが、彩色が美しく残っていて目を見張るほど。
       由緒正しいお寺なのです。
       
       そのお寺と、御澤池の龍蛇。
       
       このあたりは古来、百済系の渡来人、「ナギ族」の本拠地だったということで、雪野山もには立派な
       古墳もあります。
       また、雪野山の隣にある山は「ナギ山」と呼ばれていたとか。
       小野時兼の子孫が宮司を務めるとされる苗村神社も、延喜式神名帳には「長寸神社」と記載されてい
       るそうで、やっぱり「ナギ」なんですよね。
       
       芦摩津地が「アシナヅチ」と読めるのは偶然なのか……。
       アシナヅチであれば、その娘はクシナダヒメ。
       八俣大蛇の人身御供に選ばれた娘です。
       
       なんだかいろいろゴチャゴチャ……(笑)
       気になる神社なんです。
       
       小野時兼の子孫だと伝わる苗村神社の宮司さんとお話しができればいいんだけど。

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