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高瀬神社

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  祭  神:大国主大神 天活玉命 五十猛命
  説  明:公式サイトの由緒を転載します。
      「在昔、大己貴命北陸御経営ノ時、己命ノ守リ神ヲ此処ニ祀リ置キ給ヒテ、ヤガテ此ノ地方ヲ平治シ給ヒ、国成リ竟
       ヘテ、最後に自ラノ御魂ヲモ鎮メ置キ給ヒテ、国魂神トナシ、出雲ヘ帰リ給ヒシト云フ。」(高瀬神社誌15~16頁)
      「此御神は住昔高麗より御渡り、此地へ御着の日7月14日なりと、御神御足袋を濯せ給ふ流を、たび川と名つけ、
       此川の辺に暫時御休み、高瀬へ御移の間、俄に雨降、御神雨をくくると仰られしと也。よって其処を、今に雨潜村
       といふ也。其後毎年たひ川の辺御休の処へ御旅行なされ、其処を宮守と唱へ、今以江田村領を流るる也」(越之下
       草3頁)
       
       御鎮座は遠く神代の昔、また景行天皇11年の御代とも云われています。社伝に御祭神が北国御開拓の折、この地に
       守り神を祀り、国成りおえて後、自らの御魂をも鎮め祀られ、出雲へ帰り給うたとも伝えられ、のちに延喜式内社、
       越中一宮として崇められてきました。
       越中国の人々は勿論、朝廷の崇敬も厚く、天武天皇の御代に勅使を派遣され、光仁天皇の宝亀11年に従五位、文徳
       天皇の斉衝元年に従三位、また同年、祢宜、祝等に把笏を許さる。貞観元年に正三位、その後も順次累進、治承四
       年に正一位を授かりました。
       また社頭荘園多く又皇室の御領に宛てられたこともあり、神子屋鋪・鎌倉屋鋪・大宮司田・神子畑等、近傍に残る
       地名によって、往時の盛大さを偲ぶことが出来ます。
       戦国時代には社頭荒廃し、見るに忍びない状態となりましたが、前田藩主の崇敬厚く漸次神威昂揚せられて、明治
       八年に県社、大正12年に国幣小社に昇格されました。
       大正十三年には摂政の宮の御使が参向され、大正十四年には皇后陛下より「神ながらの道」を奉献され、昭和三年
       の御大典、昭和16年の宣戦また昭和20年の終戦には勅使の参向がありました」
  住  所:富山県南砺市高瀬291
  電話番号:
  ひとこと:越中は、一之宮が複数あるのですが、高瀬神社もその一つ。ここ以外は、気多神社、射水神社、そして雄山神社と
       いった顔ぶれ。
       
       ここ高瀬神社の境内には、たくさんのうさぎさんがいました。
       ご祭神の大己貴命ゆかりの動物だからのようで、むちゃくちゃ可愛かったですよ!

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