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祭 神:事代主命 健御名方命 天照皇大神 天兒屋根命 説 明:平成祭データを引用します 「延喜式内社で「諸国鎮座神秘抄」の写しによれば、奈良時代の四道将軍丹波道主命が国家鎮護の為、桑田郡に三座の神社を祀った、 これ三宅神社・山國神社・與能神社である。と記述され奈良の東大寺が別当寺であったが、與能神宮寺が建立され、現在の御旅所 を中心に曼茶羅堂・講堂等、寺区全域に伽藍・五重塔などが立ちならび、その地名が今も現存している。皇室・大名等の崇敬が篤 く、口丹波南部の中心として隆盛を極めたが、鎌倉時代に兵火にあい焼失したが、複弁蓮華軒丸瓦や五重塔の心礎・礎石などが現 存している。又、「谿端與能宮旧記」によると、僧空海が嵯峨天皇の命により神宮寺の奥ノ院露堂に僧形八幡(現存)を祀り護摩 祈祷を行った。後嵯峨天皇が村山與能八庄を神領として寄進されたと記されている。本殿は三間社流造りで蛙股の四神(玄武・白 虎・蒼龍・朱雀)などの彫刻はすばらしく、現存する慶長八年(1703)の棟札によると、文応元年(1260)に建立された 本殿が慶長元年の地震で倒壊し同八年再建されたことがわかる。現在の本殿は正徳四年(1714)の棟札により改修されたもの と考えられる。京都府登録文化財で、鎮守の森一帯は文化財環境保全地区に指定され、又、シイ、カシなどブナ科の巨木が残って おり京都府の自然200選(植物の部)に社叢林として選定されている。境内には応永二十二年(1414)の銘のある優美な橘 形仏燈があり、石造美術として日本燈籠史に掲載されている。例祭は十月二十二日で古来「六華祭」と云う名で呼ばれ、六ヶ村の 氏子を御輿がまわる輪番が廻り地蔵で決められる神仏習合の形が残っている祭りである。」 住 所:京都府亀岡市曽我部町寺蛇谷1 電話番号: ひとこと:残念ながら、「諸国鎮座神秘抄」とはどういった本なのかがわかりません。 いつの時代に書かれたものなのか、誰が書いたものなのか、どういった書物なのか……つまり、誰が書かせたもので、誰が校閲し たのかといったことが、まったくわからないので、信じてよいのか悪いのか(^^ゞ すごく画期的なご由緒を見て、 「これはどういった書物に書かれているのですか?」 と聞いたら、 「マニアの方が『そうに違いない』とおっしゃるので……」 と言ったことが結構多くてですね。 多分それは、現代だけじゃなく、神社の歴史が長ければ長いほど、そういうことが起きてると思うんすよ。 だから、神社の由緒などで、歴史を知ろうとするのは、私は反対。