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住吉大社 御田植神事




2013年6月14日。
住吉大社御田植神事を見学してきました。

お祭りがはじまるのは13時。
第一本宮の前で、祝詞の奏上などが行われるとのこと。
まずそちらへ行こう……としていたら、御田の方から何やらアナウンスが。

どうも、早くいかないと場所がなくなっちゃいそうです。
この日の目的は、「田楽の見学」だったので、
第一本殿前のお祭り見学は諦めて、御田へ向かいました。

ちょっと注意しなくてはいけないのは、
このお祭りを見学するには、初穂料千円が必要なんです。
パンフレットと「綿の花」と呼ばれる御守りをいただき、会場へ。

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パンフレットを見ると、

「伝承によれば、住吉大社ご鎮座の際、
神功皇后が住吉大神の御供田として神田を定められ、
長門国(現在の山口県)から植女を召したことに始まるという。
後に植女の末裔が乳守の遊女になったという伝承があり、
堺の遊女が植女を奉仕するという習わしがあった。
すでに鎌倉時代の記録には、猿楽・田楽など数々の芸能が見えており、
規模も相当なものであったようである。
この伝統は永く受け継がれてきたが、
明治維新に際して神事廃絶の危機にあったなか、
大阪新町の尽力によって植女の儀が復興され、
明治・大正・昭和と神事継承が行われてきた。
ついには、昭和54年2月24日、
神事は国の重要無形民俗文化財に指定となった。
現在は、御田植神事保存会のもと、御田講、
上方文化芸能運営委員会の植女・稚児・御稔女、
住吉踊保存講演会、武者行事保存会、田植踊保存会、
大阪供奴保存会などによって、神事の維持継承が行われている。」

とのこと。

新町花街が全面的に協力しているところが面白いと思いませんか?
ちなみに、秋の大祭では、南地五花街の遊女が全面的に関わっていたとか。

さて、祭りに先立って、斎牛による代掻きが行われます。

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斎牛はいわゆる但馬牛、二歳の雌。
毎年、このお祭りのためだけに育てられた二歳の雌牛が奉仕に携わるんだそうです。
お祭りの後、どうなるんだろう……。

第一本宮では、修祓・献饌・祝詞奏上につづき、神前より植女が早苗を、
大田主が御神水を授かり、風流武者行事・玉串拝礼などが行われているようです。

その後、行列の入場。

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先頭で不思議な所作をしているのが、「供奴」。
いわゆる「露払い」でしょうね。
所作は「なんば歩き」「奴振り」と説明されました。

なんば歩きと言えば、同じ方向の脚と手を同時に出して前進する歩き方。
相撲の四股もなんば歩きの一種と言えます。
一説では、沼地の歩き方なんだとか。

八乙女の頭には開いた扇子と菖蒲の花。

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綺麗ですね(#^.^#)

全員が入場すると、
まずは神職さんによる四方清め祓。

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次に大田主さんにより、御神水が田圃に注がれます。

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このときも、四方から少しずつ注いでおられました。
なんか意味があるんでしょうね。

次に、早苗の授受。

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左手に位置した植女さんから、右手の替植女さんへ、早苗が受け渡されます。
つまり、植女は、早苗を運ぶ役目なんですね。
田植えをするのは、替植女なんです。

でもこの立ち位置からも想像できるように、
替植女より植女の方が格式が高い。
ちょっと不思議な気もします。

ここでやっと芸能の始まり。

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舞台では、八乙女による田舞が奉納されています。
これは古式にのっとった神楽だそうですが、
前半は優雅にゆったりと。
後半はリズミカルだったのが印象的。
歌はなく、雅楽の演奏だけで舞われました。

次は御稔女さんによる、神田代舞。

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この舞自体は、昭和27年に無形文化財に選ばれたことを契機に創作されたもの。
歴史は古くありませんが、御稔女の存在は古くからあったようです。
かつて、花街で品性・容貌・技芸等において特に優れた女性が奉仕していたようです。

でも26年以前はどうだったんだろ(^^ゞ
不明です。

さらに、風流武者行事。
これには、清め祓の意味があるそうです。
また、虫送りの意味も。

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一人の武者大将が入場し、「風流」という所作を行う……とあるんですが(^^ゞ
「風流」の所作ってなんぞや???
パンフレットによれば、
「裏表金銀の日の丸が描かれた軍扇を掲げることで月に見立て
その光を長刀の刃に反射させ、足元を照らしつつ敵の足跡を探る所作」
だそうな。
どうも意味深ですよね。

その昔、長門国の国司が綿を奉った時、その警護にあたった武士によって、
紙前に武運長久を祈ったという故事にちなむとあります。
他の説では、源平合戦に由来するとも。

月明かりの下で敵の足跡を探る……とは矛盾するような気もしますが(^^ゞ
明治維新の廃仏毀釈前までは、神宮寺の社僧が奉仕していたそうです。

その後は、棒打ち合戦。
「うぉ〜!」という雄叫びと共に入場してきた武者・雑兵たちが畦を練り歩き、

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雑兵たちよる棒打ち合戦となります。

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なかなか迫力ありますよ(#^.^#)

そして次はまた、女性たちの出番。

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田植踊ですね。
畦では童女たちも踊りを披露。

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確かに、田植えの所作をしていますね。

農作業の中で田植えが一番キツくつらいことから、
こうやって歌を歌いながら作業をし、
楽しさを見出そうというのが田楽だそうです。

田植歌をそのまま転記しますね。

神の田植えに目に立つものは並ぶ乙女の赤だすき、
大社あればこそ諸国の商人の船がつく、
田植えする間を見守るやうに松の影やら鷺の影、
出船入船日に千艘の船も詣づる四社の前、
松の間に淡路の見えて沖に三つ四つ真帆片帆、
伊勢の内外の宮詣でせし後は住吉四社詣で、
ここは住吉太々神楽いつも絶やせぬ鈴の音、
四社の前にて扇拾ひてめでたさ末繁盛、
まるい反橋四角い鳥居庭にも池の鯉、
今年は豊稔年穂に穂が咲いて道の小草も米となる、
石の燈籠数よんでみれば二千九百十燈、
田植えしまふて笠とり見れば淡路島根に陽の落ちる。

脚萎えのヒルコのなれのはてともされる淡路島。
「流された子」の化身、淡路島。

往時はここから淡路島が見えたんでしょうか?
それとも、何か淡路島にこだわる理由が?

どちらなんでしょうね?

最後が、住吉踊。

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伝承によれば、神功皇后が無事に堺の浜へ上陸された際、
祝福と歓迎のため、住民が躍った舞だとか。
中世以降、神宮寺の社僧が、
「天下泰平、五穀豊穣」
と祈りながら諸国を遍歴したと書かれています。

社僧が……か。
願人ではなく、社僧なんですね。
ここらへんって、どういう位置づけになってるんだろう?
単純に、住吉踊りを諸国に広める願人に社僧の地位を与えたのかもとか。

今回このお祭りに参加したのは、
猿楽の素になったとされる田楽を味わいたかったから。
北条高時が浮かれ狂った田楽舞とはどのようなものか知りたかったから。

でも、こうやって見ると、本当に民間芸能という感じですね。
なぜ、時の天下人たる高時が、この舞にそこまで入れ込んだのか。
自分なりの答えは出せませんでした(^^ゞ

でもとにかく、昔ながらの田楽が保存されたお祭りです。
興味を持たれた方は、ぜひ一度!

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